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タイトル「真説」というよりは「新説」
記事No: 299 [関連記事]
投稿日: 2006/02/01(Wed) 20:05
投稿者Tm.

お久ぶりです。ついに歴史群像シリーズ・デラックス(2)『よみがえる真説安土城』が発売されましたね。
従来、本丸御殿とされていたものを奥御殿と見做す説には驚きましたが、正直言って疑問です。
詳しくは三浦研究室の掲示板の方へ書き込みましたのでご参照ください(また削除される前に?)。
その上で、天主に関しては新たなる問題箇所が見受けられます。

それは以前より注目していた四階の南北にあったとされる四畳半の座敷の扱いであり、四階は
「小屋の段」という呼称からすれば三階の屋根裏階と見做すべきものであり、かの立面構成
からすれば東西の入母屋の内の破風の間とすべきものであって、二階の入母屋のそれを二重造り
にしているのは他に例もなく、梁間が狭いので四畳半であったというのも説得力に欠け(六畳でも良い
ハズ)大いなる疑問と言わざるを得ません。当然、岡山城天守もそのような構造にはなっていません(笑)。
安土城天主を模したとする岡山城の伝承を鵜呑みに参考としながら共通点をかなり断定的に
主張されているのもやはり問題ですね。

それに今回注目されている「冬の陣図屏風」の大坂城天守もそうですが、天守建築における
破風構成の基本は棟向きを交互に重ね上げることが指摘出来、それは単に大入母屋のみならず
張り出しの屋根や千鳥破風を含めて考えるべきものであり、今回の復元案で言えば最上階の
棟向きは南北栄であってしかるべきべきものではないでしょう(それは宮上案にも言えることでしたが)。

さらに言えば最上階の屋根に唐破風の取り付けられていることにも疑問であり、「冬の陣図屏風」の
大坂城はもとより、聚楽第や多く破風で飾り立てられていたと見られる肥前名護屋の天守にもそれが
見られないことから、時代的にその採用はもっと下るものと考えられます。


タイトルRe: 「真説」というよりは「新説」
記事No: 300 [関連記事]
投稿日: 2006/02/01(Wed) 23:41
投稿者

ご無沙汰してます。待ちに待ったこの本、
私も本日落手しました。
結果は…うーん、どうでしょう。

T.mさんの書き込みタイトルの指摘するところですが、
まず編集サイドのセールスとしても「真説」はないですよね。
加藤理文さんの復元研究史を見てもまだ未決着以外の何者でも
ないのに、これは傲慢以外の何者でもないと思います。

何より、「批判は学術誌でないと回答しない」と答弁していた
佐藤氏本人が、未だ学術誌への正式な掲載を経ずして商業的な
冊子に論証過程も明らかにしないまま自説を流し続けている
といのうは理解に苦しむところもあります。
期待していたのに復元の過程は何も明らかになりませんでした。

何故、史料から明らかにできない最上階の唐破風について
現実あったものとして存在意義を説くことができるのか?

岡山城を元に細部を復元していると思しいにもかかわらず
同城と安土城が似ているなどと言えるのか?

復元案の屋根組をもって複雑な屋根の曲線を納めることが
できたのは岡部又右衛門の技量というが、それは単に復元した
佐藤氏の自賛になっていないか?

など。

つまり、氏の論にはループがいくつもあり、よく読むと
「あれ?」という部分がたくさんあるように思います。

とりあえず一読者として感想まで。


タイトルRe: 「真説」というよりは「新説」
記事No: 303 [関連記事]
投稿日: 2006/02/15(Wed) 00:40
投稿者淳也

お久ぶりです。

『真説』の題ですが、歴史群像シリーズ・デラックス(1)の題が、
『よみがえる江戸城』なので、シリーズ物として本来は、
『よみがえる安土城』にしたかったのだけれど、

この題は、吉川弘文館から出ている木戸雅寿 さんの本の題名で使われているので、
何かを付け加える必要がある→歴史群像シリーズはインパクトのある題名が好き、
ということで『よみがえる真説安土城』になったと思われます。

だいたい世の中、
自分で「真」とか「正」の字を使うのは怪しい感じがするのですが、
自説を世の中に強く主張したい感じは、よく出ていますよね。


きれいなCG画像は、とても素晴らしい出来ばえだと思いましたが、
復元案の理論的根拠などの詳細については、
わざわざ取り上げるほどのものではないと思われます。


タイトルRe: 「真説」というよりは「新説」
記事No: 304 [関連記事]
投稿日: 2006/02/15(Wed) 23:48
投稿者

淳也さん、こんばんは。

> だいたい世の中、
> 自分で「真」とか「正」の字を使うのは怪しい感じがするのですが、
> 自説を世の中に強く主張したい感じは、よく出ていますよね。

同感です。編集の希望でしょうけど、複数の著者がいて見解が少しづつ
違うのに、「真説」を謳うのでちぐはぐなんです、多分。

> きれいなCG画像は、とても素晴らしい出来ばえだと思いましたが、
> 復元案の理論的根拠などの詳細については、
> わざわざ取り上げるほどのものではないと思われます。

そこを言葉で聞きたいわけです(笑)。


タイトルRe: 「真説」というよりは「新説」
記事No: 306 [関連記事]
投稿日: 2006/02/17(Fri) 00:27
投稿者淳也

> > きれいなCG画像は、とても素晴らしい出来ばえだと思いましたが、
> > 復元案の理論的根拠などの詳細については、
> > わざわざ取り上げるほどのものではないと思われます。
>
> そこを言葉で聞きたいわけです(笑)。

あの復元案では、聞くだけ野暮なのではないかと・・・。

どう見ても、
安土城を模したと言われている岡山城の天守を安土山の天主台に乗せて、
上部を信長公記に基づいて、八角と四角の物に取り替えたプランで、

以前、森さんが書かれていたように、
文献資料をあたってみれば、岡山城が安土城を模したという伝承は、
天守という名前の大櫓を建てる根拠についての一般論を記しているものが、
伝承の過程で、というか明治以後の学者が誤解して出来上がったものなので、

宮上説の、推定復元した大坂城を基に復元するよりはマシだとは思いますが、
あの外観についての理論的根拠は書きようが無い!
というのが本当のところではないかと思われます。


タイトルRe: 「真説」というよりは「新説」
記事No: 307 [関連記事]
投稿日: 2006/02/18(Sat) 09:46
投稿者

> 宮上説の、推定復元した大坂城を基に復元するよりはマシだとは思いますが、
> あの外観についての理論的根拠は書きようが無い!
> というのが本当のところではないかと思われます。

佐藤説に対して少々意地悪が過ぎました。反省です。
できればちゃんとした場で反論してみたいとは思ってますが。


タイトルRe: 「真説」というよりは「新説」
記事No: 308 [関連記事]
投稿日: 2006/02/21(Tue) 13:06
投稿者HIRO

お久しぶりです。

当方、相変わらず田舎者でまだ実物を拝見しておりませんが
みなさんのお話を読む限り急いで行くことも無さそうですね(笑)。


タイトルRe: 「真説」というよりは「新説」
記事No: 309 [関連記事]
投稿日: 2006/03/06(Mon) 22:15
投稿者

こちらこそご無沙汰しております。

買った方がいいです。急がなくてもいいでしょうけど。
最近は書籍の回転が速く、すぐなくなってしまいますから要注意。

では。


タイトルRe: 「真説」というよりは「新説」
記事No: 310 [関連記事]
投稿日: 2006/03/10(Fri) 19:57
投稿者HIRO

ご無沙汰しております。

森様
> 買った方がいいです。急がなくてもいいでしょうけど。

今日、行ってきました…が一読して悩み、悩み、保留してしまいました。
確かに後半部分には新しい話も載ってますし、復元案の比較考証なども
あったので買おうと思ったのですが...

前にも書きましたが、ああやって比較に大坂城や岡山城を出せば出すほど
デザイン的に後の城と(というか京都に現存する建築物や總見寺の遺構とも)
連続性が全く無い城だなんだ!と強調されているようにしか見えませんでした。

まあ、それを以って批判の根拠とするのは無意味だと判ってはいるのですが
なんていうか…建物としてのバランスが独特なんですよ。はっきり言って美しくない。
美意識の高い宮大工が最高権力者の居城として建てた城には見えないんですよね…。

というか、「岡山城に似てる(この前提がおかしいのは皆さんに教えてもらいましたが)」
のなら、なぜ外形が内藤案ベースではダメなのか?という疑問が生じてしまいました。
彼の復元案は「岡山城に似せること。でも内藤案に似た物はダメ」という縛りの中で
作られている様な印象を受けます。

なので最後まで財布の紐が緩みませんでした。うーん。


タイトルRe: 「真説」というよりは「珍説」
記事No: 332 [関連記事]
投稿日: 2007/05/27(Sun) 19:01
投稿者大陸進出

Re: 「真説」というよりは「珍説」 画像サイズ: 289×289 (33kB) 図書館に佐藤案の新説安土城が入りましたので、早速借りてみました。
CGが多用され、まるで安土城にタイムスリップしたかのようで楽しい本でした。
屏風絵や安土城下町についての記事も充実していました。
しかし、天主閣に関しては皆さんと同感で、内藤案をひっくり返すほどのインパクトはないように思われます。
私には、内藤案が現在のところ唯一の復元案だと思われます。
直接的な土木建築学的資料の裏付けがある唯一の具体的な復元案だからです。
他の方の復元案は、「俺が信長ならこう建てる!」という思い込みを元に、
間接的な見学記に矛盾がない間取りの組み合わせを考えた「参考プラン」に過ぎないように見受けられます。

しかし、僕にも内藤案に対する疑問がないわけではありません。

それは、地下の宝塔(法華経の「宝塔湧出」の再現だそうです)や一重から四重までの吹き抜けと、
そこに架けられた橋や空中舞台(素敵です!)についてではなく、主に内外装の意匠に関してです。

(疑問1)
 寺院に使われる高価な黒漆塗りの華頭窓をわざわざ採用したのに、なぜそれを敢えて目立たなくするかのように、
黒漆塗りの羽目板を窓の肩まで貼り付けたのか?

 また、せっかくの高価な黒漆の羽目板も、あそこまで多用すると安っぽく見えて仕方がありませんし、
何より華灯窓の曲線が奏でる造形美、その並びのリズム感を見事なまでに殺してしまっています。
やはりお寺に使うような超高級建材である黒漆塗りの華灯窓を採用する以上、その美しい曲線が目立つように、壁は白漆喰にし、
更に黒漆の羽目板が貼られていたとすれば、それを最大限生かすように必要最小限に使うのではないでしょうか?
しかも、我々現在日本人に近い感覚と思われる宣教師が「真っ白い塔に太陽が反射して(他の)宮殿全体を明るく照らしていた」
と書いているのに、まるで「カラス城」と言いたくなる真っ黒な天主閣になっています。

(疑問2)
 金箔を貼り付けた七重目の外壁の飾りに、なぜわざわざ何の細工もない安っぽい緑色の格子を嵌め込んでいるのか?

 これではまるで「金箔を貼るカネがもうなくなってシモタ…」と天下に宣言しているようなものではないでしょうか?
 この場合は羽目板とは逆に、どうせ金箔を貼るなら金閣寺のように全部金箔で貼らないと中途半端な気がします。

(疑問3)明の職人、一観が焼いたという「軒端に金箔を貼った薔薇色の瓦(by宣教師)」はどこにいってしまったのか?

(疑問4)(男性、それも天下人となった後は、中国大陸に攻め込もうとしている信長の)七重目の格子天井に、
 なぜまるで女性の部屋のような花鳥(草花)の絵、が採用されているのか?
 儒教や道教など、壁の画題とかけ離れていてチグハグな気がします。信長に女装趣味でもあったのでしょうか?
 扉についても、言葉ではうまく言えないのですが、あまりに豊臣秀吉好み過ぎるような気がします。

以上について、淳也さんの見解をよろしくおねがいします。

蛇足ですが、(1)〜(3)の疑問を解消すべく、お絵描きソフトで私なりの安土城外観修正案を描いてみました。
彦根城に法隆寺夢殿と金閣寺を乗っけたようなお城になってしまいました(笑)。


タイトルRe: 「真説」というよりは「珍説」
記事No: 333 [関連記事]
投稿日: 2007/05/27(Sun) 21:55
投稿者

淳也さんではないですが、見解をひとつ。

そもそも内藤説の根幹をなす「天守指図」について大陸さんは「直接的な土木建築学的資料」とされてますけど、この説が出されてからまもなく宮上茂隆氏から、同図はまさに近世の大工による「俺が信長ならこう建てる!」という思い込みを元に、間接的な見学記に矛盾がない間取りの組み合わせを考えた「参考プラン」ではないかとの指摘がなされ、かなりの支持を受け現在に至っている経緯があります。

つまり、内藤案の根拠も「参考プラン」を具象化したに過ぎない可能性が高いということになりますね。だからこそ諸研究者は内藤説をとらず、間接的にしても当時の見学記の記述に「矛盾がない」間取りの組み合わせを一生懸命考えてその復元の妥当性を得ようと苦労している訳です。

重ねていいますと、大陸さんが疑義とされている外観については、「天守指図」にも記述は少なく、つまり「直接的な土木建築学的資料」を欠いた状況で下見板の高さや連子窓の色合いなどをあれこれと考えておられるのは、つまりご自身が批判されている

>「俺が信長ならこう建てる!」という思い込み

と大差ない印象による想像、連想に留まっているように思います。

では。


タイトルRe:疑問2 緑色の格子
記事No: 334 [関連記事]
投稿日: 2007/05/28(Mon) 20:09
投稿者淳也

こんにちは、
あまり更新されないページに来ていただきありがとうございます。

安土城の外観は、
>彦根城に法隆寺夢殿と金閣寺を乗っけたようなお城
で、基本的には良いのではないでしょうか?

天守指図・宣教師の記述・カータリーの版画の
3点の資料の条件を満たす下層部の復元案は、
彦根城の外観になるものと思われます。


さて、時間もないので?今日はとりあえず(疑問2)の件ですが。

>  金箔を貼り付けた七重目の外壁の飾りに、なぜわざわざ何の細工もない安っぽい緑色の格子を嵌め込んでいるのか?
>
>  これではまるで「金箔を貼るカネがもうなくなってシモタ…」と天下に宣言しているようなものではないでしょうか?
>  この場合は羽目板とは逆に、どうせ金箔を貼るなら金閣寺のように全部金箔で貼らないと中途半端な気がします。


緑色の格子を安っぽいと思えるのは、
現代では人工顔料で安価に塗料が入手できるからであって、
当時の緑色といえば、孔雀石を砕いて作った岩絵具が原料なので、
材料代を考えれば金箔の方がよっぽど安く上がります。

現代でも、金より岩絵具の方が高価なので、
当時の人は、緑色の格子を安っぽいとは思わなかったと考えられます。

また、宣教師の記録には、最上階は金と青色、と書かれています。

復元案というものは、すべての資料に矛盾がない
組み合わせを考えることが基本だと思うので、
たとえ中途半端な気がしても、
最上階は、金箔に緑色の格子であったと思います。

その他についてはまた後日。


タイトルRe:疑問2 緑色の格子
記事No: 335 [関連記事]
投稿日: 2007/05/31(Thu) 17:47
投稿者大陸進出

Re:疑問2 緑色の格子 画像サイズ: 308×255 (27kB) お忙しい中、疑問に答えていただきましてありがとうございます。

> 天守指図・宣教師の記述・カータリーの版画の
> 3点の資料の条件を満たす下層部の復元案は、
> 彦根城の外観になるものと思われます。

嬉しいことに淳也さんとまったく同感です!
また吹き抜けとその真ん中に浮かぶ空中舞台は、当時の武士のたしなみであった能狂言の練習場だったと思います。
ゴルフ大好きの社長が自宅にパター練習場、カラオケ好きが練習のために地下室を作るような感覚で、
信長の甲高い声と濃姫の打つ鼓の音がポンポン!と吹き抜けに良く反響し、第一次信長包囲網の武田信玄亡き後、
来るべき強敵、上杉謙信との対決への恐怖を精神的に克服しようとしていたのではないでしょうか。

> 緑色の格子を安っぽいと思えるのは、
> 現代では人工顔料で安価に塗料が入手できるからであって、
> 当時の緑色といえば、孔雀石を砕いて作った岩絵具が原料なので、
> 材料代を考えれば金箔の方がよっぽど安く上がります。
> 現代でも、金より岩絵具の方が高価なので、
> 当時の人は、緑色の格子を安っぽいとは思わなかったと考えられます。
> また、宣教師の記録には、最上階は金と青色、と書かれています。

丁寧な解説ありがとうございます。
将軍義昭による第二次信長包囲網の主力部隊、恐れていた上杉謙信との決戦を控えて、勝てばよし、敗れたとしても
悔いのない豪華絢爛な家を建てたい!という信長の思いが伝わってくるような気がします。

ところで食い下がるようですいません。私なりに、
−「ある階は、白い壁に黒漆を塗った日本風(華灯?)の窓、ある階は赤と青、最上階はすべて金色」
−「最上階は金と青に塗られていた」
という二つの異なる証言を両立する「よゐこの塗り絵」を行ってみました。添付した画像をご覧ください。
金閣の高欄と夢殿の屋根の間の三角形の部分が青色という珍説です。ちなみに左後ろの山は観音寺城です。
これなら一見すると七重目は「すべて金色」、しかし目を凝らしてよ〜く見ると「金と青に塗られていた」(笑)。
また「瓦は青かった(by宣教師)」ので、瓦とこの三角部分の外壁が一体化して、日本建築の優雅さの基本である
水平方向のスッキリ感が出るように思いすがどうでしょう。
因みに、下から見ても金色に見えるように、高欄の床板とそれを支える木組みは裏も表も金箔で貼られていたと思われます。

とここですいません、急に雷が鳴りだしたので失礼します!


タイトルRe:疑問2 緑色の格子
記事No: 336 [関連記事]
投稿日: 2007/06/05(Tue) 08:32
投稿者大陸進出

Re:疑問2 緑色の格子 画像サイズ: 300×308 (32kB)
撮影データ ( Exif情報表示)
撮影カメラCYBERSHOT
焦点距離9mm
露出モードプログラムAE
測光方式中央重点測光
ISO感度100
シャッタースピード1/63秒
絞りf2.8
疑問4については、図書館で内藤昌著「復元安土城」を借りて見たところ、天主指図に「花鳥つくしなり」と書いてあったので、解消しました。
以前、見物した遊郭の天井が花鳥つくしだったので違和感があり、つい疑問に思ってしまいました。スイマセン。

また、前回、金閣と夢殿のジョイント部が青く塗られていたとする珍説を披露してしまいましたが、ウチの高校の先生が作った木組みの薬師寺の三重塔の模型を眺めていたら、それを裏付けると同時に「各階が異なる色で塗られていた」という証言について一つの仮説が浮かんできました。添付画像をご覧ください。

三重塔を下から見上げると、壁の色はもちろんのこと、軒の天井の色が印象に残ります。
もちろん安土城天主閣の軒の張り出しは三重塔ほど大きくないですが、もし七重目の高欄の木組みが群青で塗られていた(ただし欄干は金)とすると、(大手道を上がる際に見上げることになる)天主閣各階の軒天の色は、
七重目が金、「七重目の高欄」が青、六重目は赤、(五重目の破風が黒)、四重目から二重目が白となります。
「壁が」ではなく、「各階が」異なる色で塗られていた、という表現もこれで納得ですがどうでしょう。
また、これは施工上の理由で変更されたのではないかと思います。

以下、私の創作です(笑)。
金閣と夢殿のジョイント部分をどうするかとなった時、天主閣の模型を前に信長(館ひろし)と棟梁の会話。
信長「余の神殿であるからすべからく最高級の材料で飾らねば宣教師どもに示しがつかぬわ!ここも金箔じゃ!」
しかし、夢殿の屋根がうねっていて足場が悪いため、
棟梁「お館様、手間ども大工は問題ありませぬが、足場が悪いゆえ、金箔師たちがここで微細な作業をするのはムリでございます」
信長「〜であるか。。。その方に何か妙案はないか?」
棟梁「見栄えを良くするには、金箔より高価な群青を塗るのがよろしいかと存じます。そのほうが横方向の安定感も増しまする」
信長「出過ぎたことを申すでないわ!」
棟梁「お館様、しばしお待ちを!」棟梁、模型のジョイント部を群青で塗る。
信長「群青も悪くないのう。。。五色に輝く天主か…、よし、是非に及ばす!そちの申すようにいたせ!」
このような経緯でジョイント部の木組みと三角の外壁は群青で塗られ、四隅の木鼻に金の金具が取り付けられたのではないでしょうか。

ここまで妄想が炸裂すると、珍説!安土城というより、邪説!平楽城です(笑)。平楽城=「平」安「楽」土「城」、ついにやってしまいました…


タイトル天井画と群青
記事No: 343 [関連記事]
投稿日: 2007/08/15(Wed) 09:45
投稿者大陸進出

信長の旗印と言えば、ご存知「南無妙法蓮華経(永楽通宝)」ですが、法華経には聖徳太子も関係しています。

  日本書紀によると、606(推古14)年、聖徳太子が法華経を講じ、615年、法華経の注釈書「法華義疏」を著す。
  このことから聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつとされた。

また、鎌倉時代に法華経を広めた日蓮(1222-1282)の布教モチベーションが

一天四海 皆 妙法に帰す

で、一天は太陽、四海は四方(よも)の海で、全世界を指します。全世界をあまねく妙法(法華経=正しい教え⇔邪法)に導くという意味で、「うぬ(明智光秀、上杉謙信)が好みの古き化け物ども」と戦い「天下布武」に邁進中の信長は大いに共感し、モチベーションを高めたと思います。これらを念頭に安土城天主閣を見ていくと、信長の考えていたことがよく解ります。

[一重目〜五重目]=人間界(天下=四海)
-日本列島の中心地点、安土山頂に宝塔を建て、大聖堂建築でそれを取り囲み、天下布武&国家鎮守の日本国王としてそこに住む。
 →宝塔前に祈祷室を設け、宝塔真上に橋を架けて「天下人」としての意識と「天下統一」へのモチベーションを高める。
 →戦国乱世という現状に対応するべく、火矢対策の白漆喰壁(大壁構造)と瓦屋根で仕上げる。四海(四階)をイメージした青瓦で葺く。
[六重目]=神仏の住む天上界(朱塗り柱の真壁構造)
-大聖堂建築の上に神仏の住む天上界を置く。
 →神仏習合を示す八角堂。その内側に仏教画題(釈迦説法と地獄絵図と天人影向図)を描かせ、外側を神社風に仕上げる。
[六重目と七重目の間]=宇宙空間(群青)
-神仏の住む天上界と天道(太陽)の間の宇宙空間を示す群青で塗る→日本人宇宙飛行士、織田信長さん(43)。
[七重目]=太陽(一天)
-宇宙空間を旅して最上階に至り、天道=日の子=太陽=天上界と天下界を支配する最高神になる(足利義満の金閣寺を参照)。
 →赤瓦と黄金(五穀豊穣&大漁)で仕上げる。太陽の運行方向を示す東西の入母屋、火伏せに一対の鯱(東国西国)を載せる。

 日本列島の中心に位置し、帝釈天と四天王の住む須弥山に見立てた安土山、東西軸とある重要な方向(京都-岐阜ラインはその副産物)を示す軸からなる平行四辺形、ある天体から見てある図形になるように北を長くし、ある重要な天体と須弥山(蛇+亀+象×3)を示し、ある重要な神社のパワーを取り込むために隅切りを行った天主台とその下の本丸行幸御殿(1間=7尺2寸)。
その上に建つ天主閣の櫓部(1F〜5F)で天下統一し安堵する「日本国王」に、望楼部(6F〜7F)で神仏の住む天上界を飛び超えて宇宙空間に飛び出し、「天の主」(太陽と北極星)になろうとしたのです!

 これにより、金閣ではなく、その下の夢殿に天人影向図を描かせた理由も、「信長公記」や「安土日記」が天井画の画題を上下取り違えた理由も完全に理解できます。信長には天人に見下されるのではなく、天人を見下す必要があったのです!「天人を見下す天の主」という発想がない太田牛一や村井貞勝は、後で本にまとめる際、この上下関係を取り違えてしまいましたし、それを読んだ後世の人も次から次へと取り違えてしまうのです。ですから最上階の天井に天人影向図を描いてる復元案はその時点でアウト!です。天人に見下されてる以上、「天の主」ではなくなるからです。

 もうハッキリ言います!アイツ(天守指図)は稀代の本物です!(by梅宮辰夫)

P/S
淳也さんのおかげで、高校生活最後の夏休み自由研究「よみがえる邪説平楽城 」になりました(^^)。
信長のおかげで一段とレベルアップ&パワーアップしたような気がします。この猛暑もなんとか乗り切れそうです(^^)。

 内藤昌先生の復元安土城天主+淳也さんの指摘(夢殿付け根の破風=小屋の段と階段のあかり取り)+邪説平楽城の塗り絵

を以って私の結論といたします。
来年の信長まつり(6月2日)にはぜひ安土城跡に行って、天主台と信長の家(原寸大復元)を見てみたいと思います。
このサイトを作ってくださって本当にありがとうございました!


タイトル花鳥尽くし
記事No: 374 [関連記事]
投稿日: 2007/09/28(Fri) 21:04
投稿者大陸進出

Q.なぜ最上階の天井画が「花鳥尽くし」なのか?
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 このように西(京都)を上(座)、東(坂東)を下(座)とする天守指図によってはじめて、武力によって戦国の乱世を治め天下の秩序を取り戻した後、上座の釈迦説法図を背に座り、隙あらば上洛して天子にちょっかいを出そうとする坂東(下座)の「つわもの」ども(杉謙信、武田勝頼)に睨みを効かせつつ、上方(京都)の御所と天子(正親町天皇・誠仁親王・五の宮)を庇護し、神仏を乗り越え、最上階で(※2)「豊葦原の中つ国」をあまねく照らす(※1)「天照大神(=女性の太陽神)」を迎えて、彼女と一心同体になった「天の主」として日本列島の中心から儒教道教の教えに則って正しく天下を統治する、という信長の意図がハッキリスッキリ理解できます!!(^^)
 淳也さんが指摘している通り、京都御所で最も神聖不可侵とされる剣璽(けんじ)の間(=「三種の神器」のうち草薙の剣と勾玉を奉納)の襖絵は花鳥図で、天照大神(♀)を迎えるための安土城最上階の天井画にまさにもってこいの画題だと思います。

A.天照大神(女性太陽神)を迎えるため。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


(※1)天照大神(アマテラス・オオミカミ)
 イザナギとイザナミ兄妹夫婦が諸神を生み終えてから、「天下の主」として生まれた高天ヶ原の最高神。孫のニニギに神勅と三種の神器を与えて「豊葦原の中つ国」を治めさせている。太陽神として崇められ、伊勢神宮に祀られる皇室の祖神。もうそのものズバリです\(^^) 
 
 信長とお市の方兄妹は愛人(たわけ)関係にあり、浅井三姉妹の長女茶々(のちの淀殿)は信長の子供だった可能性が高いという衝撃的な仮説をテレビ東京でやってました。その根拠は、(1)隣の敵国美濃ではたわけ、地元尾張ではうつけの信長と呼び分けられていたこと、(2)お市の婚期が当時としては遅いこと、(3)「浅井三代記」におめでたいはずの長女茶々の出生記録がないこと、(4)浅井長政を小谷城に訪問した際、奥の寝室で一晩中二人だけで睦んでいたこと、(5)小谷落城前夜に何よりもまずお市の救出を秀吉に厳命したこと、(6)織田信雄、織田有楽斎などの織田一門の武将が長女淀殿を頼って大坂城に身を寄せていたこと(三女「お江」を頼って江戸城に身を寄せた織田家の人間が皆無)、(7)大坂夏の陣で徳川秀忠正室であった三女の「お江」が姉の淀殿を助けようとしなかったことなどだそうですが、何より浅井長政が二女に「お初」と名付けたのがすべてを物語っています(信長への宛てつけ?)。もし事実なら、信長-お市兄妹の近親相姦はイザナギ・イザナミの兄妹夫婦の故事に倣っていたことは間違いないと思いますし、豊臣秀吉も、浅井三姉妹の二女「お初」(近江京極氏)と三女「お江(=びわ湖)」(徳川秀忠)をすぐに政略結婚の道具として嫁がせたのに、長女茶々だけは自らの側室として決して手放さず、茶々専用の家臣を付けたり聚楽第や新築の淀城(淀川水運の通行税徴収→莫大な利益)を与えるなど女王様扱いして鶴松や秀頼を産ませたのは、天照大神にピッタリ重なる茶々の出生の秘密の意味を知っていたからに違いありません。
 茶々という命名センスですが、生まれたばかりの長男信忠の顔を見て奇妙丸と名付けたり(阿弥陀寺の木像参照)、側室お鍋の方が生んだ子供にお酌と、その場の閃きで即断即決して命名していた信長らしさを見ることも可能ではないでしょうか?
 
(※2)豊葦原の中つ国=(神々が住む)高天ヶ原と黄泉の国(冥界)の中間に位置する国=日本列島
 安土山を取り囲んでいた大中湖、伊庭湖、弁天湖、西ノ湖の水面に「豊」かに「葦」の「原」っぱが茂っていたのも、安土占地の理由のひとつだと思います(^^) 琵琶湖岸のこれら4つの内湖の中心に浮かぶほとんど手付かずの安土山を見つけ、それが日本列島の中心地点(須弥山)であることを確信した信長(館ひろし)が、山麓に目をやったときの「麓の湖岸はこれまた豊かな葦原ではないか!?ここじゃぁ!!ここが「豊葦原の中つ国」じゃぁ!!ついに見つけたぞ!!1、2の3ダァァァァッ!(byアントキの猪木)」と大音声で絶叫する有様が目に見えるようです!!(ちなみにヨシは葦(アシ)の発音が「悪し」なので「良し」と言い換えたものが定着したもので、「するめ」を「あたりめ」というのと同じだそうです)。現在でも滋賀県近江八幡市では西ノ湖に繁殖しすぎたヨシ刈りのボランティアを募集しているそうですから、安土築城前の目賀田山は「豊葦原の中つ島」状態だったと思います(^^) 近江八幡市の安土町では「ヨシジェラート」や「ヨシみどりうどん」が特産品だそうです(どんな味がするのかまるっきり想像がつきませんが、安土城跡に行けたらぜひ食べてみたいです)。



 ひょっとすると、お寺を始め高貴な建物に用いられる入母屋屋根というのは、「切妻屋根」と「入り屋根」に囲まれてできた両端の三角形△の破風が(天上界から降りてくる)神仏の出入り口なのかもしれません(入り屋根は足場)。だとすると2匹の金の鯱は空港滑走路に飛行機(神仏)が着陸する時の誘導ランプ/↑\としての機能があったと考えられます。また、目立つ赤瓦や金箔で天主を輝かせたのは、財力を見せつけて朝廷や他大名の戦意を喪失させ戦わずして服従させるためであるのはもちろん、さらに天上界に住む神仏に対して「神仏よ!うぬらが加勢すべき人物はここにおるぞ!」と強烈なアピールをするためだったと思います(∵安土城と同じ金箔瓦を織田一族の居城(大溝城、神戸城、松ヶ島城etc)にしか許さなかったのがそれを如実に物語っています)。

 具体的に言うと、以下のように天照大神を招き入れて信長と一心同体となります。

(1)朝、天照大神(太陽)が東から登り、自らが放つ強力な陽光によって安土城最上階の屋根に上げられた2匹の金の鯱が燦然と輝いて誘導ランプとなり、確実に最上階の入母屋屋根の東の破風△から最上階に入ることができる(出勤タイムカードをガチャン!)
(2)黄金のペントハウスオフィスで仕事開始。インテリアを女性好みに仕上げる→天井を花鳥画、唐戸を草花彫刻で装飾。
  →天下の中心「安土城」から「豊葦原の中つ国」の隅々に太陽の恵みを与える。
(3)夕方、そのアルバイトが終わると今度は西の破風△から出て(退勤タイムカードをガチャン!)、西に帰宅する。

 つまり最上階は金閣寺ではなく、乱れた天下をより強力に治めるために、天下人信長(♂)が天照大神(♀)と一心同体になるための装置として開発&設計されたのです。「天主閣」という命名も、宣教師が「一種のピラミッドみたいな建物(冥界の王を再生復活)」と表現したのも、これで納得です。

 したがって安土城最上階のデザインはこの7点セット↓なのです。

(1)着陸誘導ランプ/↑\としての2匹の金の鯱
(2)専用出入り口としての入母屋屋根の破風△×2
(3)赤瓦+(4)総金箔仕上げの外壁→太陽
(5)天井花鳥画+(6)唐戸内側の草花彫刻→女性 
(7)天下人の模範を示す儒教道教の障壁画


 加賀藩御大工・池上右平、内藤昌先生、淳也さん、日ノ本三十之さんのおかげで、安土城天主の外観や内部構造とその意味を完全に理解することができ、あらためて安土城四天王に感謝します。

【訂正】
-内藤案の擬宝珠は開花型ではなく逆蓮(ぎゃくれん)型というそうです。
-地階石倉の独占祈祷「室」、空中舞台、天下橋
-信長の×「以降」を復活→○「威光」(大急ぎで書いたので変換ミスです)
-「シャラポワ」の安土城下の図→「シャルルボワ」

P/S
-安土町観光協会ホームページ
http://www.azuchi-shiga.com/index.html
-近江歴史回廊 戦国の道シンポジウム〜「よみがえる安土城−信長の夢」講師:愛知産業大学学長 内藤昌
http://www.oumi-castle.net/gensetu/miti/yume.html
 「石倉は六角形で宇宙を表している」