安土城 掲示板
[新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトルTmさん、淳也さん、
記事No: 265 [関連記事]
投稿日: 2005/05/02(Mon) 12:21
投稿者日ノ本

TmHさんとのメールに導かれるかたちで、H大M研究室の掲示板たずねて見ました。
S氏とT.M氏の掲示板の書き込みも見ました。
若い研究者は、粗い所が、あるかもしれませんが、着眼点など、優れた面も持っている事が多いです。
復元は難しい労作だと思います。創造力なければできないし、想像がもとの創造ではいけないし。
確か、ずいぶん以前のことですがT大建築史研究室には、有能な宮大工がブレーンとしていたと聞いたことがあります。
必要なことだったんだなと思います。
H大M研は、復元を実務でもしておられるみたいですし、
たしjか、厳島社の平舞台のいかだ構造を、とかれた研究室だと思います。
興味をもっている研究室です。



私は、何故、観音寺城から、見下される佐々木氏の家老格が居た出城的な安土山の地に、
あえて信長が、『天下城』を築いたのかをつきとめました。
信長が、天下布武を唱えた時期、やはり、再利用城ともいえる岐阜城を何故、使用したのか、
そのことも理由があったことがわかりました。
信長が、新しい城を、新しい場所に作らなかったのは、理由があったのです。
中古品好き、ではないのです。
淳也さんが、サイトに紹介されている中井氏が説かれた城のネットワーク
論の城、も自説を補足的に証明してくれる証拠を見つけることができました。
中井氏の説は、惜しいというより、若干ですがずれています。ポイントは、角度距離とも安土城を外れています。
淳也さんの竹生島の南の地にと同様です。安土城が、竹生島を意識していること、
また、城のネットワークが、安土城を意識していることは、勿論!間違いありません。
織田信長の城のネットワーク論は、100%同意します。
長浜城は、古い歴史がありますが、他の二城は、明智光秀が関係しています。
この城のネットワークの提案者は、明智光秀かもしれません?

城の四辺形ネットワークが正確であっても、
信長の家臣達の城群との構成で、占地理由になるのでしょうか、
天下城の意味、意義、価値が生まれるでしょうか、
安土城の占地の根拠には、なりえないと考えます。
説得力がないです。
勿論 天下城の価値を高めることには、なります。


安土城の占地理由を絶対的に証明してくれるのは、天守台の位置と、
それを、さらに、確実に証明するのが、天守台の石垣遺跡なのです。



ですから、天守台の石倉内部に現れている、整然と東西南北に並ぶ礎石群や、
正確に東西の方向を示す、石倉の二面、さらに、主要な南北線をずらした平行な二面が成す、平行四辺形状を
崩した多角形の石倉、
さらに、それに準じた形の外郭であっただろう、天守台石垣は、
石倉と石垣外郭裾野の距離が、10数メートル程度あり、Tmさんのいう均等暑さで築かれています。
外側片面、表面石垣と裏込め石、それが土類(土塁)をはさんで、石倉側内面の構造であろうが、
これらが、天守台の建つ段のレベルに対応して厚さを成しているようである。
これら天守台石垣が、偶然に成りえる形状でないことは疑いもないはずなのですが、
石工集団の技術不足が生んだというのは、?恣意以外のなにものでもありません。
石工集団の技術がなければ、序のような形態の天守台できません!
何故、角隅が増えたか、
答えは簡単です。
鋭角の角隅は、構造的に不利であるからです。
石垣構造と木造の天守閣構造を安定した、より丈夫な構造体にするためです。
私の研究では、この隅切りも適当に行なってはいません、
意図をもって、天守閣の形態から石垣天端の形状を決めてあるようです。


私の天守閣への考察を書きます。
以下は、やや乱暴かもしれませんが、率直な考察です。

内藤氏復元案の天守閣に近い、天守閣が建っていたと考えます。
つまり、天守台石垣天端形状に対応した天守閣ガ建っていたと想像します。

理由1
内藤氏の実質発見した、加賀天守指図以外、指図は発見されていない。
(吹き抜けが、記述にない、あるいは、間数が記述と違うとのことですが、)
吹き抜けについては、記述にないからないとはいいきれませんが、
指図(設計図)が最終指図でない可能性が高いト考えます。
文献史料と、遺跡と大きく違わないことが、価値を維持しています。

論外
古今、通常、設計計画図は、何案もつくりますよ、
Tmさんの家、私が委託されて、設計したとします。何度も打ち合わせして、設計図をつくりますが、
ほぼ最終案に近い案になった後でも何枚か細部を変えた案提示しますよ、
そして、実施設計図です。工事中でも設計図と違う変更することも当然有ります。
最終指図でないほうが、リアルです。
何故なら、軍事機密ですよ、
最終指図が残っている方が不自然では、ありませんか。
吹き抜けあったほうが面白いですけどね、

安土の天守台跡が、第一絶対の史料です。


理由2
上に整形の天守閣を載せるのでしたら、100歩譲って、変形多角形の石垣の外郭をつくり修さなかったとしても、
天守閣の変形石倉、整形の天守閣に不都合のないよう、石倉、を整形な正方形か長方形平面にするよう、
石垣を追加する方法も可能です。
内側を壊して手直しするより合理的です。
私の考えは、天守閣の石垣の直上階が、石垣の天端の形態に準じた変形多角形でも、それを無視した整形の長方形平面であろうと、
整形の石倉が可能で、構造上不都合なく石工も容易いと言うことです。
Tmさん、これに対しては、整形天守閣を主張する人たちは、何か、書いておられますか?


今までも書いていますが、石垣の形状は、指図とうり行なわれたのです。
天守台石垣については、
安土城郭研究所の測量調査図には、北面、東北東面、西南西面等は、書き入れないですが、
南面と南東面の二面、石垣の最下部の石垣線が書き込みして有ります。
レベルが違いますから、厚みではありませんが、
わりと長い石倉南面側i石垣は、石倉面と天端線と下端線は全て平行を成し、もう一面の短い石倉南東面については、
石垣天端と平行です。(復元石積みの範囲か、わかりませんが)
15m程度の巾で、片面、表面石垣と裏込め石とで、それが土類(土塁)をはさんで、両面でこれらを実現しているんです。
この石積み技術は実に正確です。高度な築造技術ではないでしょうか。
だから、石垣の形態は、偶然的な形態ではないと判断しているのです。
何より、その成している角度が、私の論のよりどころです。

簡単に書くと、下層階では、石垣、石倉、石倉内礎石群より、
二つの長方形平面を合成した形態を成していると考えています。
内藤案のような平面です。
これらは、二軸を成しています。
南北(東西)軸と、もう一方位の二つの方位角線が交わっていることを表しています。
この地が、天下城のポイント(交差点)であることを示しています。
それを天守閣自体の石倉を含む、天守閣の下層で表象しているのです。
多角形になったのは、この二長方形を結んだのです。ですから、変形多角形の平面になったのです。
そのことで、角隅をとった多角形となったのです。
その隅切りも、上に書いたように適当にはしてはいません。
上記内容を表象するような平面に適合した隅切りが行われているのです。


安土城は、天下城として、ふさわしい位置場所であると確信し選ばれた地です。
その選択の根拠を、意味を天守閣の形態でも表したのです。
建設場所安土の意味、その表象として天守台、天守閣は作られたが、結論です。


肝心なことを書いていないので、いらいらさせていると思いますが、公表まで
お待ちください。
天守台の形態が、天下城の地、それを示しているのです。

いままでの繰り返しですいません。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ ※必須
Eメール 公開または未記入   非公開( Webメール利用 )
タイトル sage
URL
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
画像File (←130kB程度まで)
Exif情報を   削除しない  削除する
暗証キー (英数字で8文字以内)
プレビュー   

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー