タイトル | : 懸造りについて |
記事No | : 261 [関連記事] |
投稿日 | : 2005/04/30(Sat) 10:24 |
投稿者 | : Tm. |
> 天守閣に懸造り?ですか、
> 天守台の周囲に礎石でも見つかったのでしょうか?
> 石垣の一部、段上に礎石代わりになる構造の痕跡でも見つかったのでしょうか、
> 建築学会に発表されたという論文,私も早速探してみてみます。
別トピで紹介させていだきましたが、佐藤大規氏は当初、「懸造り」とすることで
『信長公記』に記されている「17間に20間」の規模を成立させようとされていた
ようですが、結局は不等辺多角形の上面に納まる形を選ばれたようです。
その佐藤氏が「懸造り」の根拠としたのは、天主台南西隅下部からそれに沿う形で
発見された礎石群であったと思われます。
ただしそれでも結局は不等辺多角形にならざるを得ず、それが変更の理由ではないか
と推察します。
> というより、天守台の石倉の形状です。外郭の石垣形状とは、無関係な形状でつくれます。そのことに注目してください。
最初のレスでも申し上げた通り、そのことは天主台より小さい規模で天主が建てられて
いたと主張するうえでのネックです。
> 天守台の石垣の最下部より、石倉床レベルは、高いはずですから。石垣工事中の途中で、
> 天守閣の最終プランができたのなら、石垣の形状の変更修正もできますし、なによりも、
> 石倉を、平行四辺形を変形した多角形にする必然ありません。
> 内部の石倉の深さ等により必要厚さは、変わりますが、構造上、納まり上の必要厚ささえ確保さえすれば、
> 外郭が(不等辺)八角形であろうが、七角形であろうが、当然、石倉は、正方形や、長方形平面にできるのです。
森嶋さんも言われていることですが、自分も石蔵の深さはさほどない六尺前後で
(宮上氏のように二段石垣であったとみていません)、結果として半地式の構造では
なかったかと推察しています。
そうしたなかで、以前申し上げた孕みの問題には日ノ本さんのご指摘された雨水の
浸透も想定しており、そうしたことからも外辺からの均等化が考慮されているのでは
ないかと考えています。
> 石倉、石垣の形状は、意図があり、作られたと考えるのが自然な理解とは思えませんか。
従って、外辺=石垣の形状は縄張りの上から、内辺=石倉は耐久性を考慮したうえで
の相似形であったと考えます。
> 最近の復元案ですから、実態の石垣と、石倉、礎石、実測調査に基づき、史料と、大きくい違わない空想復元案でない、根拠にもとづく推定復元案が提示されたのだろうと思いますが、懸造りは疑問に感じます。
そもそも、佐藤氏の論文は宮上氏批判を前提に進められており、素人眼にはかなり恣意的な解釈が
なされているやに思われます。
いわゆる書院建築の広縁と櫓建築の武者走り(入り側縁)が二重に廻らされていたとする
主張については、是非とも日ノ本さんのご意見を伺いたいところです。
ただし、『城のつくり方図典』に掲載されているのは一方向の立・断面図のみであり
詳しい変更箇所や理由は不明ですから、今後の正式な発表が待たれます。