タイトル | : RE:Tmさん |
記事No | : 239 [関連記事] |
投稿日 | : 2005/04/22(Fri) 01:08 |
投稿者 | : 日ノ本 |
Tmさん、はじめまして。
書き込み ありがとうございました。
> 1)基本的なことなのですが、日ノ本三十之さんは「天守指図」支持派なのでしょうか?
>
支持派でも、反対派でもありません。
ただ、天守指図のように、南北と、
石倉が示す、直交しない二辺等を意識した、
下層部を持つ天守が築かれていたと考えます。
敷地に対応した石垣になっているとか、
石垣が、石工の未熟さとか、縄張り先行などの
当時の技術を都合よく誤って、侮っておられる論には組しません。
天守台の実測測量図をみての確信です。
Tmさんは、安土城を、研究発表するつもりの者がと、不思議がられるかもしれませんが、
信長の天守が、何故、安土に築かれたかを論じるのに、私自身は、安土城について深く研究している研究者では、ありません。
佐々木氏にあてた手紙で書いていますが、私のライフワークの研究となりつつある、研究の副産物なのです。
(城にたいする興味は、中学生のときからあり、高校生のとき、たいくつな授業中に城の設計図を描き、職員室によばれた、懐かしい体験があります。その後、現在、建築の設計を業としています。)
城は、いまも大好きです。安土城は、以前から、観音寺城の関係他で、疑問に感じることが多々ありました。
> 2)次に天主台の形状についてですが、今日一般には「不等辺八角形」と紹介されることが多いものの、
私の手元には、安土城郭研究所から、送っていただいた、天守台実測図4枚が手元にあります。
手に入れる依頼を電話で安土城郭研究所にお願いした時、Tmさんの指摘された、サイト【読売新聞滋賀版に掲載された「安土城 〜信長の夢〜」】を見た後でしたので、不等辺七角形の天守台の実測測量図を手に入れたい旨、お願いしましたら、送ってくださった、担当の方が、不等辺八角形です。と答えられ、そうなんだ〜
と、思ったことを覚えています。その程度でした。
天守台の石倉は、不等辺六角形(平行四辺形の変形)で、実測終了でしたが、外郭の石垣は、未了という電話内容をあらわす内容の資料でした。
私は、この資料で、充分なんです。
私の主張を、調査実測図は、阻害しないし、証明してくれました。
> 3)上記のことから、日ノ本三十之さんご指摘の「正四辺形の内接不整形」はその通りであったと思われますが、
> 「不整形」はあくまで地形の都合による地取り=縄張り先行の結果と考えます。
建築の実務設計者として自信を持って言います。
石倉内部の礎石は、正確に、南北、東西配置しています。
また、石倉は、正確に、二辺が正確に東西平行をなし、
そして、他の長い二辺も正確に南北からある角度をなし平行です。
この平行は、Tmさん、偶然になったと思いますか?
偶然平行になるわけがありませんよ、
石工も、正確な技術を持つひとたちだったんです。
天守台の基部、更地に造成でない理由ありますか?
施工誤差の範疇ではありませんから、理由がないのに、
施工しづらい形態にわざわざしません。
下層部の不整形は、意味、理由があって作られたんです。
Tmさん、私の論では、八角形でも、
七角形でもどちらでもいいのです。
どちらが、より信長が採用しただろうとは、
述べることはできますが、
Tmさんのいう、敷地に合わせたという説は、
答えが見つけられないから、の逃避説です。
古代、中世技術あなどるべからず!です。
> 4)日ノ本三十之さんは淳也 さんの「安土選(占)地」理由にやや否定的?なようですが
着眼点は、すばらしいです。
えらそうに書いていますが、30k程度で、数百メートルの誤差は、日本の山々を越えた
位置選定なら、認めてよいと考えますが、竹生島と安土には、障害物ありませんので、
私は、認めません、
繰り返しますが、中世技術あなどるべからず!です。
それは即ち、安土城が「見られることを意識していた城」であるからに他ならないからでしょう。
>
> 「山水画に見られるような絵画世界の具現化」
> それも信長の構想の中にあったものと考えます(小林千草・千草子『原本「信長記」の世界』他)。
Tmさんの説は、新説ですね。
城は、仰ぎ見られることに、意義があったとするのが通説ですから、、、
でも、それでも、信長は、この地を選んだのです。
今年いっぱい、がんばります。
期待される結果、展開できるようにします。
Tmさん、管理人淳也さん。 日ノ本