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タイトル【天下城】の佐々木譲氏に送ったメールです。
記事No: 222 [関連記事]
投稿日: 2005/04/15(Fri) 03:02
投稿者

はじめまして、日ノ本三十之(本名を崩して使ってます)です。私は、建築士です。

安土城関連のサイトをサーフィンしましたら、佐々木さんのサイトに行き当たりました。

佐々木さんのいう、
【わざわざ不整形八角形の建物を建てることの不可解
最初から1階部分を不整形八角形という、
工事のしにくい、ふしぎな建物として構想していたことになる。
なぜそんなかたちの建物をわざわざ造らねばならないか。】

不整形八角形の天主台は、いわゆる設計図どうりに築かれたのです。
その形態に建てなければいけない理由があったのです。
意図があっての形態なんです。

安土城の天主台石垣は、完全調査は未了のようですが、内部の石倉は、安土城郭研究所によって、
実測調査されております。天守台は、不整形八角形ではありますが、八辺のうち、長辺の四辺、各二辺毎は、平行で、正確な方位性をもって築かれています。また、これらは、正四辺形の内接不整形八角形である
ことが、意図的な形態であることを示しています。

不整形八角形は、当初から、佐々木さんが考察されているとうり、
石工が、未熟なためではないのです。また、
何故なら、

天主台は、不整形の狭小な、勾配のあるがけっぷちに建てられているわけでもないですし、
天主台の周囲には、余裕があります。
正確に、正四辺形の台を築くのは、当時の技術力でも一番簡単な事です。
たとえば、基部が、正四辺形で、技術不足のため上部が、少し崩れた四辺形という
程度では、当然ありませんから、、、
技術、うんぬんの問題で述べる次元の解説外の事です。

佐々木さん自身が、自論の一部に納得されていないはずです。


【天主のその規模、かたちについて、石積み職人衆は事前に建築プランを熟知していた。
そのうえで、天主台の石を積み、必要な場所に礎石を埋めていったのである。】
は正しいのです。

ところで、
佐々木さんは、信長が、自分の築いた安土城が、下方に見下されるのを良しとして、安土の倍近くの高さのある、また大規模な、隣接の観音寺城の再利用を図らず、何故、ぞの出丸、支城的である地に、天下城を築いたか、明快な答えを出すことができるでしょうか、

以上の内容での
何故、天主台が、不整形八角形なのか、
何故、安土に天下城を築いたのか、
この二つの疑問に、明快な答えを、わたしは、出せます。

実は、私の趣味の建築の研究の副産物として、これらは解明したことですが、
今年中に、日本建築学会他にて、発表しますので、
その際には、ぜひ、一報しますので、聴きにおいでくだされば幸いです。

                                     
                                     日ノ本三十之 

このサイトも、興味深く見させていただきました。


タイトル八角形と安土城の占地
記事No: 223 [関連記事]
投稿日: 2005/04/15(Fri) 22:51
投稿者淳也
URLhttp://www1.asitaka.com/relig/fuusui.htm

日ノ本三十之さん、はじめまして。

>何故、天主台が、不整形八角形なのか、
>何故、安土に天下城を築いたのか、

この件については、このサイトでも少し触れていて、
八角形については、大聖堂の中の「番外編・不等辺八角形」で、
安土城の位置については、宗教の中の「安土山の風水」で、
少し取り上げてあったりしますが、

と、書いておいて、宗教の項目はサイトを移転した時に、
再構成しようと思ってUPしなかったのを思い出しました。

更新記録を見ると、「安土山の風水」の項目は、
3年間もUPせずに放置してあったようです。

ということで、3年ぶりに宗教の中の「安土山の風水」
の項目を復活させましたので、

閑と興味がある方は読んでみて下さい。


タイトル不等辺八角形と安土城の占地
記事No: 224 [関連記事]
投稿日: 2005/04/16(Sat) 17:18
投稿者日ノ本三十之

淳也 さん、ありがとうございました。

早速、サイト 興味深くみさせていただきました。

う〜ん。しかし、
このサイトの内容では、残念ですが、天下城の根拠論としては、説得力がいまひとつではないでしょうか、竹生島のほぼ真南ということで、真南ではありませんし、、、、平行四辺形も精度が甘いようですし、、、観点は良いと感じますが、、、

私の論(今年中に、発表する予定)を、あきらかにしないのに、もうしわけありませんが、
私の論と、あたらずとも遠からず、、、です。

天主台の不等辺八角形と安土城の占地は、関わりがあるというのが、
私の解のひとつです。



タイトル : 追伸: 不等辺八角形と安土城の占地
記事No : 225 [関連記事]
投稿日 : 2005/04/16(Sat) 17:36
投稿者 : 日ノ本三十之

> 天主台の不等辺八角形と安土城の占地は、関わりがあるというが、
> 私の解のひとつです。

天主台の不等辺八角形は、安土城の占地理由を表している。

に訂正します。


タイトルRe: 八角形と安土城の占地
記事No: 244 [関連記事]
投稿日: 2005/04/23(Sat) 19:31
投稿者Tm.

お久しぶりです純也さん。
純也さんの「不等辺八角形」の理由に対する説明は

 実際の計画が、不等辺八角形になったのは、信長の要求が、「正八角形につくれ」ではなく、
 八角形に、ということであったために、大工が施工のしやすい、長方形平面を少しずらす形で、
 不等辺八角形に、つくったからであると思われます。

とのことですが、苦しさは否めないと思います。

もし信長が八角形を求めたとすれば、それはむしろ「正八角形につくれ」でしょう。「とにかく八角形につくれ」
であったとは正直なところ考えづらいものです。縦しんばそうであったとすれば、関係者はもっと正八角形に
近い形状に成るよう努力したでしょうし、少なくとも石蔵は正八角形であってもよかったハズです。

そのうえ石工が大工の施工のし易さを配慮して石垣を積んだとすれば、「天守指図」の地階の間取りが
矩形の組み合わせである以上、少なくとも石蔵もそれに即した平面に造成されたハズでしょう。
純也さんの説明は、計らずも「天守指図」批判の要素をも含んでいるかと存じます。

手前味噌になりますが、やはり安土城天主台(郭)の「不等辺八角形or七角形(実は六角形か)」は
地山の制約を受けた上で対辺の平行性の確保を目差した結果であったと考えるべきだと思います。


タイトルRe: 八角形と安土城の占地
記事No: 342 [関連記事]
投稿日: 2007/08/13(Mon) 09:58
投稿者大陸進出

 話題が外れてしまったので、それに相応しいタイトルにワープしました!よろしくおねがいします。

>ただ、天主の構造は、伝統的な日本建築の技法で建てられていると思われます、
>なぜなら、東西断面は教会建築に似ていますが、南北断面は全く似ていないと思いませんか?
>安土城天主は、大聖堂を構成する各部分を日本的な建て方で造ったもので、
>構造は大聖堂そのものではないと思います。

 南北断面は確かに全然違いますね…

 これに関して(?)は、淳也さんが安土城の風水ですでに指摘されていることを参考にググってるうちに、僕にも仮説ができました。
この「天下城」には竹生島の他に、京都のある神社、もうひとつ別の方角にある神社が大きく関係していることが判ります。
それらを考え合わせると、以下のことが完全理解できるからです。

-なぜ「天主」台があの形なのか?(平行四辺形の角度にも、隅切りにも「天下城」として必要不可欠な意味がありました)
-金閣の屋根をなぜ東西の入母屋に作り変えたのか?なぜ「北棟長し」なのか?(=石倉礎石群の中心が「天」主台の中心から南にずれているのか?)
-なぜ「天主」閣に八角堂(夢殿)を取り入れたのか?(信長、恐るべし…)
-なぜ本丸行幸御殿を「天主」閣に対してあの方角、場所に建てたのか?
-なぜ「天主」閣を5色に塗り分けたのか?(適当に塗ってないです。すべての階(建材&工法)にちゃんと意味を持たせています)

 そして2007年8月現在判る範囲で、安土城「天主」閣に関して5つの必要条件が存在します。信長がさらに別の意味を持たせたことは十分考えられますが、これら5つの必要条件だけでも現在発表されている安土城「天主」に関する復元案が一応採点可能にはなります。では「必要条件とその理解度」に従って採点してみます(普段採点される一方の受験生にとっては楽しい!瞬間です)。

-内藤案は5つの必要条件を1つだけ満たしていません(惜しい!)ので80点。しかし他の4つは完全理解しておられますので合格!
 たとえ鉄筋コンクリートで再建したとしても信長公が「まぁまぁ、良かろう!」と暖かい目で見てくれるであろう唯一の復元案です(^^)。

-宮上案は逆に1つだけ必要条件を満たしていますので20点。
-土屋案、古川案は4つの条件を理解していないのは明らかですが、白黒なので20点をあげられるかどうかは?です。
-西ヶ谷案は1つも必要条件を満たしていませんので0点。
 これら4つの復元案は単なるハリボテです(キッパリ!)。

-兵頭案は必要条件を1つも満たしていないだけでなく、重要な必要条件そのものを破壊してしまったので、-20点!
(図書館で見た瞬間、爆笑してしまいました!今でも笑いが止まりません!落ち込んだらこの復元案を思い出すことにします)。
-佐藤案はある重要な必要条件を勝手に変えてしまい、3つの条件についてはたぶん不完全な理解なのですが、残り1つの条件を満たしているので、おまけで30点。ただ全体のバランスが悪すぎ、木造建築物として「ヨーロッパの最も壮麗な建築と比較しても遜色ない(by宣教師)」で-30点。
 勝手に必要条件を変えたこれら2案で再建すれば間違いなく信長公の逆鱗に触れます!結果はご想像にお任せします。

-森案は見ていないので採点不能(ぜひ見たいのですが、淳也さんはご存知ですか?)。

 因みに「天主」台があの形である理由を理解しないまま、ヴィンチェンゾ・カルタリの木版画から天主の外見を復元するは(内藤先生のマネです・笑)、シャラポワの安土城下の図から天主の外見を復元するのと大差ないです。

淳也さんの採点基準と僕のが同じだといいのですが…
北西と東北の隅切り目的に関してだけは、意見が分かれるかもしれません…


タイトル安土城天主の復元案採点基準
記事No: 344 [関連記事]
投稿日: 2007/08/18(Sat) 11:19
投稿者大陸進出

淳也さん、(「信長公記」と「安土日記」に基づく)安土城天主の復元案の採点基準がもう一つありました!


1.1階(二重目)の外壁が天主台(「天下城」であることを如実に示しています!!)に沿って、石垣と土台の防水&信長防弾の黒漆塗りの鉄板(明かり取りを兼ねた狭間戸付き)をぐるり360度回していること(20点)。
 ∵天主台の「あの形」に関連のない正方形もしく長方形だと確実に「天下城」ではなくなります!

2.石倉中央に日本列島の中心地点を示す目印があること(例:宝塔、壷)(20点)。

3.入るだけでその目印(=天下の中心)を独り占めできる部屋、通るだけで「天下人」としての自覚と「天下布武」へのモチベーションが自然に高まる通路があること(今、わしは日本の中心を踏んで反対側に移動したぞ!)(例:正面の祈祷室、その真上を通る渡り廊下)(10点)。

4.その目印(=中心地点)を見ながら出陣式が行える能舞台(武家の必須アイテム)があること(10点)。
 →(この戦いはこの戦国乱世に終止符を打ち、天下をあまねく平定するために是非とも必要である!その犠牲は天下の秩序を乱そうとする者への最強の見せしめであると同時に、破壊的創造への礎(いしずえ)でもあるから、他大名(例:上杉、毛利、長曽加部、顕如)の戦いとは目線の高さが全然違う!)ことを、能を舞うだけで再確認できる。

5.宣教師の記述(=特に両著に記述がない本丸行幸御殿への渡り廊下)、南下玄興の七言律詩をすべて満たし、補足的にカルタリの木版画や岡山城との類似性が感じとれる外観であること(20点)。

6.「安土日記」と「信長公記」における5階と6階の「挿し違え部分」を再訂正していること(20点)。
 →6階天井に天人影向図を描いたもの(∵信長が「天上天下唯我独尊」でいられる部屋がなくなる)
 →5階にも高欄を回したもの(∵内柱のない6階を支えるための通し柱が極端に細くなり、そこに梁穴と45度∠の捻れが加わる)は
  柱の継ぎ方の提示と縮尺模型での実験結果が必要です。


安土城にハマる理由(ワケ)がよ〜く解りました(^^)。
あとは永徳の屏風が発見されるのを待つだけです!


タイトルRe: 安土城天主の復元案採点基準
記事No: 345 [関連記事]
投稿日: 2007/08/19(Sun) 10:37
投稿者大陸進出

要するに、内藤案以外ではありえないということです。

宮上案は設計事務所と組んでデッチ上げたハリボテですし、他の案は「信長ファン」から小遣いを巻き上げるための架空のフィクション(内藤先生のような木組みの説明は一切なく、派手な外観、「武者走り」で誤魔化す間取り、虚仮威しのCGばかり)でしかないということがよく判りました。貴重な時間を浪費してしまいましたが、貴重なお小遣いを1円も無駄にしなかったのが唯一の救いです(内藤先生の「復元安土城」を含めて信長・安土城関係の本はすべて学校や近所の図書館で借りてます)。バイトで金余りになる大学生になる前に気がついて本当に良かったです。これからは(も)信長や安土城関係の本にはビタ一文使いません!!

淳也さん、歴史作家や歴史学者の「お小遣い稼ぎ」にあやうく引っ掛かるところでした(^^)。これに気付かせてくれて本当にありがとうございました。


タイトル内藤案について
記事No: 347 [関連記事]
投稿日: 2007/08/22(Wed) 00:12
投稿者淳也

こんにちは、
ずいぶん熱心に書き込んでいただき、ありがとうございます。

さて、
現時点では、サイトの隅々まで良く読まないと解りにくいので
仕方がありませんが、このサイトの基本方針は、内藤案の否定 です。

天守指図は、細かく見ていただければ解りますが、
そのままでは建てる事のできない不完全な平面図です。

他の指図の類例を見ても、略図のような平面図が、
そのままでは建築として、まともに建てられないのはよくある話で、
復元するにあたっては、建築の常識?に従っていろいろ修正が施されます、

内藤氏が復元案を作るにあたって天守指図に施した修正は、
天守指図を過度に尊重するあまりに?、
建築としては変な構造になってしまっている事から、

このサイトでは最終的に、天守指図に基づいた、
内藤案ではない復元図を提示する予定になっているので、

> 要するに、内藤案以外ではありえないということです。

こう、はっきりと書かれるとこのサイトの存在意義が・・・(^^)。


タイトルRe: 内藤案について
記事No: 355 [関連記事]
投稿日: 2007/08/31(Fri) 20:13
投稿者大陸進出

Re: 内藤案について 画像サイズ: 400×390 (31kB)  僕は大きな勘違いをしていました。つまり天守指図≠内藤案ということですね?
 天守指図に基づきつつも独自の考証を加えて復元する淳也さん(ステキです!)。
 具体的にはどこらへんが変な構造になってしまっているのでしょうか?もし淳也さんが解説済みであればサイトのページを教えてください。
 確かに4階小屋の段は写し間違いの可能性大です。5階への階段の傾斜や3階の「松の間」を押し潰し、棚が使えなくなってしまいます!!

 今のところ、私にもハッキリ判る範囲で、内藤先生のミス(主に意匠で)は以下の3つです。

1.単なる砦の櫓ではなく、城下町をも備えた「天下城」なのに、全階の外壁に防弾用の黒漆塗り鉄板を貼り付けてしまった。
 →確実に「信長も所詮は成り上がりの田舎武将。天下無双の臆病者よ」と笑い者になります。

2.「天下の中心」を示す大切な宝塔を警固する四天王像を取り除いてしまった→地味で味気も素っ気もない宝塔になってしまった。
 ∵「(天主は)信長自身が迷子になるほど多くの部屋を有していたが、彫像がその目印となる(by宣教師)」
 →各部屋入り口の長押(鴨居)や柱、欄間には、5階八角堂内陣の登り龍降り龍のように、それぞれの部屋の用途目的に相応しい神仏・賢人や動植物を選び、浮き(透かし)彫りさせていたのです。ましてや安土城のシンボルである「天下の中心」宝塔(=宇宙の中心「須弥山」)を守る大切な四天王像を省いてはいけません!!(尾張・性海寺の宝塔参照)

3.赤瓦を忘れてしまった→派手好きで自己顕示欲旺盛な信長の「天下城」が、黒壁に青瓦では周囲の景色(まだ見たことはないのですが…)に完全に埋没してしまいます。
 ∵「遠くからもハッキリ見え、天を突くかのようであった(by宣教師)」に完全に矛盾します。

 つまり内藤案のデザインは戦闘用の要塞向きで、全体的に地味で無骨な雰囲気を放っていることが欠点だと思います。それなのに、とってつけたような金箔や赤漆で飾ったので、地味にしたいのか、派手にしたいのか、どっちなんだい?と思わず質問したくなるような、水と熱い油が混ざったかのような激しいチグハグ感です。
 さらに、写真で見る「信長の館」の原寸大復元望楼部も、襖や内壁、柱、天井はいいとして、長押(鴨居)の上の欄間は総金箔押しでありながらまるっきり無地で、金箔の鈍い輝きのせいで却って寂しく殺風景になってしまっています!!当然ながらここも全面に、画題を引き立てるための緻密で優雅な障壁画や技巧に凝ったカラフルな透かし彫りで埋め尽くされていたのは間違いありません。

安土城天主「信長の館」
http://www.hottv.ne.jp/~bungei/nobu/tenji/index.html

 しかし、それらのデザインさえ直せば既存の案の中では内藤先生のが唯一の「復元案」と呼べるものではないでしょうか。
 あくまで宣教師の記述に則り、その意味するところを考えながら、もっと洗練された!もっと豪華絢爛に!をモットーに内藤案を塗り直し、各部屋の長押、欄間や柱に豪華な彫像を彫ってカラフルな顔色を塗っていけば、実際の安土城にどんどん近づいていきます!!

P/S
 純也さんは内藤昌先生復元の駿府城天守閣をご存知ですか?
 家康(西田敏行)のメタボリック体型に相応しい重厚感溢れる御殿造りの大天守です(最上階の屋根だけが銅板で葺かれ、安土城との類似性を指摘されているそうです)。信長の豪華絢爛ながらスラッとした色白の安土城天主といい、秀吉の「禿げ」鼠漆喰+高台寺蒔絵のような大坂城天守といい、城主の身体的な特徴がそのまま天主(守)閣のシルエットに投影されていてとても面白いです(^^)。


タイトルRe: 内藤案について
記事No: 363 [関連記事]
投稿日: 2007/09/17(Mon) 16:06
投稿者大陸進出

Re: 内藤案について 画像サイズ: 363×477 (37kB)  Dear淳也さん(前回漢字を間違えてスイマセン!!変換ミスでした)、銀閣寺の復元お疲れ様でした(ステキです!!)。

 また最新号「安土城の宗教」にも100%賛成です!
 神仏の価値を認めないなら、神になるという行為や、更にそれを乗り越えて天主になるという行為そのものにも価値がなくなってしまいます。また「【信長=神】>天子(天皇)>人間」ということは理解できても「【信長>神】>天子>人間」という罰当たりな発想がなかったお爺さん(村井貞勝。メモを本にまとめる際5階と6階を挿し違え)に罪はないです。

 ところで、3階⇔4階の階段の位置は、もしかすると天守指図でokなのかもしれません。

 その理由は、信長のプライベート空間である天主3階の中央に掛かっていた橋は「高欄擬宝珠」=信長専用の「天下橋」ですから、身の回りの世話をする小姓や女中、茶坊主たちは、吹き抜け空間に突き出し、ぐるり360°回った縁側(幅4尺として約1.2m。転落防止の欄干付き)を往来し、各座敷に居住する信長や側室達、それぞれの子供達の身の回りの世話(着替えや給仕など)をしていたわけで、いわばライフラインである回遊式の縁側を、例え(階段とはいえ)一箇所でも塞いでしまうと、日常生活に支障を来たす恐れがあるからです。
 
 もし天守指図の階段位置だと、吹き抜け回縁への出入り口が2間分取れ、(階段室から見て)右側の襖からは東北の各座敷へ、左側からは南西の各座敷へ最短距離で行くことができます。また北西の「御鷹の間」と北東の「御座敷」(黄金の茶室)は「御」が付いているので、信長専用の部屋を示していると考えられます。この2つの信長専用座敷のうち、非日常の精神性を大切にする茶室に寝起きするとは考えられないので、「御鷹の間」が信長の寝室だと判ります(しかもこの部屋の窓からは琵琶湖(大中湖)の絶景と常楽寺港(弁天湖)の賑わいが一望できます)。短気な信長は「チッ!」と舌打ちさせるような一旦回り込む経路ではなく、よりスムーズに「天下橋」を渡れるよう棟梁に工夫させたはずです。

 それに伴って階段が3階「松の間」の東北の壁に二畳分食い込んで床の間が潰れてしまいますが、窓の位置が部屋の中心を西に1間ずれていることがそれを裏付けているのではないでしょうか?
 また小屋の段の南北がそれぞれ1間7尺(2.1m)ずつ奥まると、今度は大屋根破風内の水捌けや一段高しの8畳間(4畳半)の火灯窓の位置や大きさが問題になりませんか?

P/S
 例え天正6年に地震や台風で工事中の天主が倒壊したとしても、天下普請で畿内の貴賎を総動員して「とにかく急ぎに急ぎせよ!!」と天守指図通りの天主閣を完成させたことは間違いありません。お小遣い稼ぎであることがハッキリしている宮上案(ペーパークラフト)・西ヶ谷案(雑誌の挿絵)・兵頭案(本)・森案(論文)・佐藤案(雑誌)である可能性はゼロですので安心してください(^^) 
例:開閉する外扉の内側に釈迦説法図を描くわけがない(∵にわか雨に晒される)→5階に高欄は回っていなかったのですから。
 こんなものに月6000円のお小遣いを巻き上げられてはたまりません!!「世の人々を騙しては金銭を巻き上げる詐欺師」を成敗してほしいです。もう一回淳也さんに誓います。これからも安土城にはビタ一文使いません!!インターネットと図書館と歴史番組、内藤昌著「復元安土城」(講談社学術文庫1260円。夏休みの宿題「よみがえる邪説!平楽城」を読んだ日本史の先生がプレゼントしてくれました!これも淳也さんのおかげです。ありがとうございました!)で十分です!
 ただし、もし「JR青春18キップ&ユースホステル利用!淳也さんと行く安土城(比叡山・小谷・長浜・坂本・大溝・彦根)ツアー」みたいな企画旅行が出来たらぜひ参加したいです!!淳也さん直々の解説があって初めて安土城跡や信長の館に行く価値があると確信します!もし特別ゲストに内藤昌先生が来てくれたら内藤昌&淳也さんのゴールデンコンビのトークショーに感動して泣きそうです(本にサインください)T_T
 ところでYouTubeで兵頭案(?)の復元天主を見つけました。どうせやらかすならここまでやって欲しいです(^^)

織田信長 Part24 安土
http://www.youtube.com/watch?v=1P9H47M_lv0

Canon ペーパークラフト無料ダウンロード
http://cp.c-ij.com/japan/papercraft/


タイトルRe: 内藤案について
記事No: 364 [関連記事]
投稿日: 2007/09/17(Mon) 17:37
投稿者

大陸進出さん、いいかげにされてはいかがですか。

>「世の人々を騙しては金銭を巻き上げる詐欺師」

私のどこが人を騙す詐欺師なのか、はっきり証明して
いただこうではないですか。掲げる自説は確かに
100%正しいとは言えない、ありえないと思ってますが、
「金銭を巻き上げる」「詐欺師」とは穩やかではありません。

当該論文は規定図版を超過せざるを得なかったため、掲載に
若干の自弁があったことと併せ、論文を掲載した引き替えに
印刷本を受領した以降、読者からなどの収入などは
まったくありません。これは当然のことです。

更に「成敗してほしい」とはどういうことですか?。
身体的な、精神的な危害を加えよう、加わればいい、
ということですか。

これは度を過ぎた、というか個人に対する誹謗中傷です。

あなたは学生のようですが、そんなふざけた姿勢で今後
何が学べるのか、発言や考え方を今一度再考した方がいいですよ。

それでは、弁明なり、反論なり、謝罪なりご返事を待ちましょうか。

                  森 俊弘


タイトルRe: 内藤案について
記事No: 365 [関連記事]
投稿日: 2007/09/17(Mon) 18:17
投稿者Tm.

森さん、ご不快のほどお察し申しあげます。

が、あまり品の無い発言に対しては相手にせぬほうがよいのではないでしょうか。
正直言ってかの御仁の発言には、ただただ笑い飛ばすしかないというのが、それを呼んだ大方の感ずるところだと思います。

と同時に、本当はふざけているのではないかとも思えるのですがね。


タイトルRe: 内藤案について
記事No: 366 [関連記事]
投稿日: 2007/09/17(Mon) 18:31
投稿者

Tm.さんへ

ふざけているならなお悪質です(笑)。

まあ、返事を待ちましょう。返事で程度が知れるというものです。


タイトル天守指図の信憑性
記事No: 373 [関連記事]
投稿日: 2007/09/28(Fri) 17:01
投稿者大陸進出

天守指図の信憑性 画像サイズ: 370×450 (45kB)  内藤昌著「復元安土城」が自分の本となって気付いた細かいことがたくさんありました。やはり借りるのと手に入れるのでは雲泥の差がありました(^^) 今日は吊灯篭と擬宝珠に引き続き、5階と6階の望楼部における発見についてご報告します。

Q.なぜ天守指図は西が上なのか?

 バリアフリーが叫ばれる欧米化(?!)した市民社会では上座と下座の区別がなくても問題ありませんが(出入り口=下座)、主従の上下関係を前提に成立している封建時代に上座と下座の明確な区別がない建築というのはありえません。例:段差や仕上げの差別化、「御座」「一段高し」「一段低し」「上様」「下々」…etc.
 神仏の住む天上界(=完全数「8」)を示す5階八角堂では、小屋の段からの階段を登り、添付図のように狩野永徳の描いた鰭板(鯱と飛龍@青海波濤)と襖絵(餓鬼畜生・阿鼻地獄)、平三斗組で支えられた海老紅梁(龍の彫り物載せ)に囲まれた外陣を通って「片側に24レーグアもある巨大な湖や美しい城下町、反対側には農村や城砦が点在する開けた田園風景」を眺めながら縁側をグルリと一周し、正面(西=上座)に釈迦説法図を見る出入り口(東=下座)から内陣に入ります。
 この東西の上下関係は、地階石倉の祈祷室(丸格子から西に「天下の中心」宝塔を独り占めする)や登閣御門と併せて、東が出入り口(=下座)となる天主台の遺構からも、天守指図の信憑性を裏付けてくれます。
 6階天主室へは、内陣の北端に設置された天上階段を(正面に釈迦説法図を、同じ目線に天人影向図を見ながら)登り、下座から直接6階に行けるようになっています(これよりわしは天上界におわす神仏をも超越し天の主となるぞ!!ワクワク!ドキドキ!)。また6階から降りる時は、天上階段脇の襖からすばやく階下への階段に回り込めるように工夫されていて、戦国時代の大工棟梁の面目躍如といった感じです。

∴A.西(京都)が上座で出入り口(東国)が下座だから。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 そしてここ5階には、安土城天主が日本列島のヘソ(=東西の中間点)に位置していることを示す演出がもうひとつあります!

 5階八角堂の付け根の千鳥破風は小屋の段の明かり取りですが、その両脇下の軒に東西それぞれ2ずつ取り付けられた飾りの小破風も、日本列島そのものを一つの御殿と見做し、朝廷と武門の上下関係を意識して、以下のように作り分けられているのです。

西(朝廷=上座)優雅でお洒落な唐破風(庇)×2
東(武家=下座)豪放磊落な切妻破風×2


 天守指図が捏造だとすると、(日本側資料に天主閣⇔本丸行幸御殿の渡り廊下の記述がないので)江戸幕府の厳しい鎖国監視体制をかいくぐって、(せっかく追放したはずの)宣教師の膨大な「布教報告書」をイエズス会本部(キリスト教は禁教!)から入手し、読んでいるのが発覚すれば池上右平本人は間違いなく見せしめのために磔刑になりますし、「御大工」として召抱えていた加賀藩前田家に多大な迷惑がかかる(∵江戸幕府から監督不行き届きで厳しい処分が下る→お取り潰しや僻地に国替えの危険)と知りながら、しかも常に弟子や出入り業者に密告者がいないか気にしながら、全文をポルトガル語から日本語に訳して(→幕府の厳しい監視下にある通訳か辞書が必要)安土城の部分を特定し、その意味を完全に理解しなければなりません。
 さらに国内の移動すら大変な(「入り鉄砲に出女」を警戒して大井川の橋をあえて掛けなかった)江戸時代に「信長公の祟りがある」として畏れられ、不可侵の聖地とされた安土城跡に分け入って、崩れた天主台を発掘し大きさや形、向きまで正確に復元する(→でないと1階平面図が捏造不能)だけでなく、本丸(行幸)御殿をも発見して位置や大きさ、向き、天主台上端との高低差まで特定していた(∵両方の詳細が判らなければ「渡り廊下」を捏造できない)のですから、相当大規模な発掘調査活動になります。
 鬱蒼と茂った藪や林を伐採したり、積もり積もった土砂や瓦礫を取り除くための多くの人足や道具が必要となり、少なくともそれを許可したハ見寺にはその記録が残っているはずですし、地元安土町の協力がなければまず不可能(∵金沢で大量&長期間の通行手形の申請が必要→記録に残る)なので、人々の伝承として残らないはずがありません。

 そもそも江戸時代に「(外様大名の)加賀藩の御大工(=櫓や橋や舟を構築できる)」が何週間も近江安土に留まり、天皇のいる京都に間近な琵琶湖岸の旧城跡(軍事施設)で何かを企んでいるとなれば、謀反の疑いありとして一国一城令に触れるので(福島正則は幕府に無断で広島城の台風で崩れた石垣を積み直しただけでお取り潰し…T_T)、まず加奉公先の加賀藩前田家から発掘調査の目的を厳しく「詰問」されるはずで、次に京都所司代を補佐して有事の京都警固を任され、「五街道」である中山道や下街道(朝鮮人使節が京都⇔江戸間を移動)の通行【出鉄砲に入り女】を厳重に監視していた彦根藩や膳所藩から疑いの眼差しでの厳しいチェック、最後に江戸幕府の裁定と許可も必要ですから、いくら加賀藩前田家が徳川将軍家と親密とはいっても(逆に親しいからこそ)、念には念を入れてトップ同士自ら話を通しておいて発掘作業を円滑にするために5者すべての記録に残っていなければおかしいのです。 
 逆に言うと、東照大権現(神君家康)が命懸けの大坂夏の陣【城攻めの仕上げの総攻撃で手薄になった本陣を真田幸村に突かれ自害を覚悟(あと一歩というところでわしも信長公の二の舞か?!)→わずかな側近だけで命カラガラ脱出】を以ってやっと終結させた忌まわしい戦国時代の象徴でもある安土城を復活させる(=桓武平氏を名乗り、結局戦国乱世にピリオドを打てなかった城主信長の以降の復活→相対的に清和源氏幕府の威光を下げる)ために、(飢饉や地震、火事、大奥の贅沢三昧のせいで常に財政難→より優先度の高い江戸城や大阪城、二条城の天守すら再建しなかった)江戸幕府が発掘調査を命令しない限り不可能なのです。単に後世の語り草にするためだけに、(家光の日光東照宮直接造営以来、綱吉から吉宗の時代→幕末を通じて)常に綱渡りの幕府財政を使って、安土城の天守指図を捏造させることはありえないのです。また外様大名の財政を圧迫させるために捏造させることもありえません。その目的なら江戸城、大阪城、二条城天守閣再建の方がはるかに一石二鳥で効果的です!安土城の指図だけ捏造させても、効果や目的はもちろん、幕府に何の利益にもならず、幕府のパワハラとしてもまるで意味不明になります(o_O)? これで江戸時代に池上右平が捏造した可能性が消えます。

 近代化した富国強兵(産めよ殖やせよ)で人口がどんどん増える明治時代以降ならますます記録に残りますから、1940(昭和15)年以前に捏造された可能性が消えます。残る1940年以降に捏造された可能性はどうでしょう?その時に初めて、上部が損壊していた天主台の石倉南面の補強をしたくらいですから、それを内(※北東隅の洗所の階段)外とも築城当時の天主台上端平面を完璧に復元しない限り、それに沿った形状の1階平面の捏造は不可能(∴それ以上の階も同様に不可)です。なにより(内藤昌先生以外に)大規模に天主台を発掘調査し復元した人の報告書や論文が残ってないのはおかしいです。これによって1940年以降に捏造された可能性も消えます。最後に内藤昌先生自身が天守指図を捏造した可能性はどうでしょう?信長公記や安土日記と宣教師の記述だけで、天主台上端形状が完全に判らないまま1階平面やその上階を捏造し、本丸御殿への渡り廊下を付け加え、記録や日本建築の前例にありもしない吹き抜け空間を捏造し、そこに宝塔(∵多宝塔に例えた記録は存在?)、それ以外にも、その独占祈祷、空中舞台、天下橋を収めた上、自らの判断で5階と6階の差し違えまで再訂正して、(平屋ならともかく)細部の木組みにいたるまで現実性を持った7階建ての木造建築にまとめることは不可能です。まともな建築学者のすることではないと思いますし、内藤先生がそういう人物でないことはその数学の教科書みたいに緻密で論理的な著書からも明らかです。つまり天守指図を手にしてからひときわ高いモチベーションをもって天主台を発掘調査を開始し、復元したのは間違いなく、内藤先生はシロとなり、天守指図は本物だと言えるのです。屋内保存とゎいえ1992年以来15年間倒壊していない「信長の館」復元天主望楼部が何よりの証拠です(^^) 


タイトル下街道(朝鮮人街道)と伊庭御殿
記事No: 380 [関連記事]
投稿日: 2007/10/02(Tue) 06:31
投稿者大陸進出

▲安土城−下街道(朝鮮人街道)−伊庭御殿の位置関係

 安土城の真ん前を通る下街道は朝鮮人使節だけでなく、徳川将軍が上洛の際に利用し(∵中山道経由より約30km短縮できる=信長の先見性)、安土城付近の下街道沿いに将軍御一行の宿泊用の風光明媚な伊庭内湖を眺められる伊庭御殿(観音寺山の北西山麓)があります。
 警備上の理由から、その伊庭御殿の全体を見下ろせる安土城跡に他藩の御大工を「指図捏造の為」に立ち入らせるわけがありません(∵湖からの風向きによっては宿泊(休息)中の徳川将軍御一行に安土山頂から大砲をお見舞いできる)。

滋賀県文化財学習シート
-伊庭御殿跡 http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2136/index.html
-永原御殿跡 http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2070/index.html
滋賀県の城(位置表示) http://e-castle.net/siro_data/25_sg/index.html

 また言うまでもなく、加賀藩のご先祖様である前田利家は織田信長の家来にあたり、御大工を旧主君の「天下城」跡(京都と目と鼻の先&他藩の領内)に派遣しようとすれば、現主君・徳川将軍家との良好な関係に水を差すばかりか、幕府のブラックリストに載ってしまい、常に隠密に監視されて痛くもない腹を探られ、隙あらばお取り潰しの対象になってしまいます。  
 お家断絶に直結するハイリスクを冒してまで指図だけ「捏造」させて何のメリットがあるのでしょうか??

 これら当時の状況を総合すると、真意が測りかねるような理由で江戸幕府に京都間近で他藩領内の安土城の発掘調査を申請した場合、加賀藩前田家はその場で幕府から謀反の疑いを掛けられ、確実にお家断絶の危機です。彦根藩や膳所藩との関係も悪化し、しかも信長と利家の旧主従関係から、戦国乱世の悪夢に時代を逆行させそうとする者への見せしめのため、前田家当主の名誉の切腹もあり得ます。召抱えている御大工・池上右平にそんな二心ありと見たら、不忠の輩として池上家も何らかの形で処分されるのは確実ですから、記録に残らないはずがありません。
 また正方形や長方形に石垣を積めるようになった江戸時代に、見習い大工の間取り練習用として作成したという説明も辻褄が合いません(∵天守指図の1階平面はイビツな七角形)。
 よって池上右平は、日本建築が到達した最高傑作である安土城天主の建築学的実態を記したオリジナルの指図(日本総天守棟梁・岡部又右衛門の直筆)を、秘伝書として純粋に後世に残すため筆写し、「天守指図」とだけ記したのは、それを所蔵する池上家の子孫が(織田家と前田家の主従関係から)あらぬ疑いを掛けられるのを防ぐための右平の工作であることは間違いありません。


【訂正】まともな×建築学者→○建築史学者のすることではない(後略)


タイトルRe: 内藤案について
記事No: 390 [関連記事]
投稿日: 2007/10/13(Sat) 16:36
投稿者大陸進出

Re: 内藤案について 画像サイズ: 850×450 (73kB) > 内藤氏が復元案を作るにあたって天守指図に施した修正は、
> 天守指図を過度に尊重するあまりに?、
> 建築としては変な構造になってしまっている事から

 淳也さんのこの言葉のおかげで、内藤昌著「復元安土城」の各階の平面図を重ねて透かして見ているうちに、ついに内藤先生の案の構造的な疑問点を発見しました!!(^^)

 北西の、大倉との段差にある2本の柱は、その上階(2階)隅への通し柱となっておらず、いかにも不安定な感じがします。
 天守指図ではこの部分は(段差を示す?)直線が引いてあるだけなので、転落防止用の欄干だけが設置されていたと思います。
  (→∵もしここに2本の柱が立っていたら、線はちゃんと引いているのに、柱だけ写し忘れるのは不自然だから)
 そこでこれら2本の柱を南に半間↓&東に1間→ズラしてみました。
 こうすれば2階の2段の縁側の隅を2本の通し柱でよりしっかり固定できそうな気がしますがどうでしょうか?


タイトル4つの渡り廊下
記事No: 391 [関連記事]
投稿日: 2007/10/14(Sun) 12:04
投稿者大陸進出


 淳也さんの1階(二重目)の「かど(門)」に関する洞察は鋭く、目からウロコが落ちました!!
 淳也さんが指摘している通り、天守指図には確かに「かど(門)」と書かれた箇所が4つあります!!(東に2つ、西にも2つ)

(東側には内藤案でおなじみの2つ↓)
1.東南(→本丸御殿)、
2.東北(→三の丸江雲寺御殿・浴室?)
(西側にも)
3.南西の隅(→天主前の御白洲?)
4.西側中央(→二の丸御殿?)にも「かど(門)」と書き込まれています。

つまり天主は合計4つの渡り廊下で他の建物と直接結ばれていたのです(なんで今までこのことに気が付かなかったのでしょう…)。

 特に東北の「東の御殿より廊下あり」の書き込みが(御)台所の北隣にある(御)物置の場所に書き込まれているのは、確かに要注目だと思います。
 淳也さんの説明通り、物置の半地下から外に出ていた可能性があり、内藤昌先生による復元天主台もそれに合わせて見直さなければならない可能性が高く、新たに挑戦し甲斐がある謎解きができました。
 安土城の場合、天主は単独でなく、他の御殿(特に二の丸御殿)とセットで復元することが不可欠と確信するようになりました。
 
 内藤案より実際に近く、はるかに素晴らしい復元案になることは確実で、淳也さんの復元案に限っては(もし本になったら)必ず自分の小遣いで購入します。
 (初カキコから1年近く経って)この素晴らしいサイトの意義がやっと解りました。ありがとうございました。

P/S
 1階北西隅の(大倉との堺に引かれた)直線は段差+欄干ではなく、壁かもしれません(^^)


タイトル5本の渡り廊下
記事No: 392 [関連記事]
投稿日: 2007/10/15(Mon) 07:59
投稿者大陸進出

5本の渡り廊下 画像サイズ: 630×439 (70kB) 淳也さん凄すぎます…

天守指図を見ているうちに、
東側に3本、西側に2本、5本の渡り廊下があったのではないか?と思うようになりました。

天守指図1階(二重目の)東北には2間分の「かど(門)」があり、ここに仕切りを挟んでそれぞれの1間分に、
北側は「台所曲輪(浴室?)」への、南側は「東の御殿」(三の丸江雲寺御殿?)への2つの渡り廊下があったと仮定して、
それぞれ紺と赤で引いてみました。本丸御幸御殿への廊下は黄色で引きました。

また淳也さんが発見した西側の「かど(門)」から伸びる2本の渡り廊下は、
北側は「二の丸御殿」へ、南側は「南西物見櫓」への渡り廊下と仮定して、
それぞれ黄緑と空色で引いてみました。

まとめると、それぞれ北から南へこう↓なります。
(西側)
黄緑…二の丸御殿へ
空色…南西物見櫓へ
(東側)
紺…台所曲輪へ
赤…東の御殿へ
黄…御幸御殿へ

これだけの渡り廊下を本格的な発掘調査なしに捏造できるものでしょうか?


タイトル5本の渡り廊下(天主側)
記事No: 393 [関連記事]
投稿日: 2007/10/15(Mon) 19:45
投稿者大陸進出

5本の渡り廊下(天主側) 画像サイズ: 410×430 (46kB)  天主内部から5本の渡り廊下への出入り口を考えてみました。

(東側3本)
 淳也さんのご指摘通り「東の御殿より廊下あり」の記入が、東北隅の2間分の空白部分ではなく、(台所の北隣)物置の部分にズレていることから、この物置の半地下に階段を下りて出入り口とすると天主台を壊さなければならず、手に負えなくなる(また階段状の記入がとりあえず見当たらない)ため、
-東北の2間分の外壁の空白部分の南側(赤)に出入り口を想定してみました。
-その2間分の北側(紺)は台所曲輪への渡り廊下としてみました。
-東の御家(御幸御殿)への渡り廊下(黄色)は内藤案そのままです。

(西側2本)
-西側中央の2間分の「かど」は勾配の関係から南側1間分(黄緑)を二の丸御殿に行く渡り廊下の出入り口とし、
-南西隅の1間分の「かど」は(1階南西側に窓が2つあることから、二の丸御殿ではなく)本丸南西隅櫓への渡り廊下と想定して、南側ではなく、西側の1間(空色)を渡り廊下への出入り口にしてみました。
 
 安土城跡に行ったことがなく、高低差も正確には判らないままの想像図に過ぎないので、よろしくおねがいします。


タイトルかど東の御殿より廊下あり
記事No: 394 [関連記事]
投稿日: 2007/10/16(Tue) 18:14
投稿者大陸進出

かど東の御殿より廊下あり 画像サイズ: 840×440 (89kB)  淳也さんが指摘されているように、二重目の「かど東の御殿より廊下あり」と記入されている位置が、一重目石倉東北隅の階段と平行であることから、ここに渡り廊下の出入り口を設けてみました(左の図をご覧ください)。すると偶然にも、小便所の隅から伸びる(意味ありげな傾きを持つ)板の間の縁と一致します。これなら物置の前に「かど東の…」と書き込まれた理由も、二重目の東北の2間分の南側に階段の記入がない理由も納得ですし、(飲食後)東の御殿から(勾配や傾斜の少ない廊下を小走りに)天主に入ってすぐの場所にトイレがあるので、人間の生理にも適っています(^^) また「天下の中心」宝塔の独占祈祷室へも直接入ることができ、信長はそこを出た後、

-訪問客に土蔵で唸る黄金を見せたり(金色)
-大階段から1階に上がったり(赤)
-登閣(御)門(=信長専用)からそのまま外に出たり(青)することができます。

 しかし天主台の遺構にそれらしい形跡もなく、天守指図にも石垣の大きな欠け(切り込み)を示す記述や線分がないので、この案は我ながらボツだと思います(^^)


 そこでとりあえず渡り廊下配置想像図に若干の修正と改善(悪?)を加えるにとどめてみました(右の図をご覧ください)。

-修正ポイント1…淳也さんの仮説の取り込み(赤い細線)
 安土城は初期天主とはいえ、穴太衆の正確無比な石積み技術が用いられているため、淳也さんの仮説どおり、東北2間分の空白の南側から物置の真下へ階段を降り、渡り廊下の出入り口を半地下に開けるという案も十分考えられますので、赤い細線で示してみました。
 その一方で、東の御殿への廊下を「かど東の御殿より廊下あり」の記入位置に合わせて、2間分だけ天主台に沿って這わせてみました(ちなみに天主台の上端面が北の「大倉」の部分だけ低くなって段差が出来ているのは、東北に渡り渡り廊下を引き込んだためだと思います)。

-改善(悪)ポイント2…西側南北の接続(青緑)
 西側にある2本の渡り廊下ですが、カルタリの木版画によると渡り廊下に壁や窓はなく、桧皮葺の屋根、柱、板床、欄干(転落防止)、提灯(夜間照明)だけのようですので、1階南西側にある2つの大きな華頭窓を塞がないという条件で、南北を繋げ、青緑で示してみました。
 こうすると二の丸御殿⇔南西物見櫓間が(天主をバイパスして)直接行き来できますし、天正9年7月15日のお盆にライトアップする際にもより簡単に提灯を吊れると思います。
 また(軒に加えて)桧皮葺の廊下屋根が夏の厳しい西日を遮ってくれ、(眺望が確保されるなら)この南北接続もアリだと思うのですが、どうでしょうか?

-改善(悪)ポイント3…本丸御幸御殿への急勾配解消(黄色)
 本丸御幸御殿への渡り廊下は直線で結ぶと勾配がかなり急になりそうな上(高低差約10m)、カルタリの木版画ではこの渡り廊下は曲がりくねる桧皮葺屋根が表現されていますので、天主台の東南面や天主取り付け台の石垣に沿って這わせてみました。 人間50年といわれた平均寿命の短い戦国時代で、すでにおじいさんだった第106代正親町天皇(1517年生まれ59歳)もこのほうが登り易いと思います(^^)


タイトルRe: 安土城天主の復元案採点基準
記事No: 352 [関連記事]
投稿日: 2007/08/26(Sun) 22:19
投稿者

>歴史作家や歴史学者の「お小遣い稼ぎ」

これは酷いなあ。


タイトルRe: 【天下城】の佐々木譲氏に送ったメールです。
記事No: 226 [関連記事]
投稿日: 2005/04/18(Mon) 10:56
投稿者Tm.

日ノ本三十之さん、はじめまして。

> 以上の内容での
> 何故、天主台が、不整形八角形なのか、
> 何故、安土に天下城を築いたのか、
> この二つの疑問に、明快な答えを、わたしは、出せます。

> 実は、私の趣味の建築の研究の副産物として、これらは解明したことですが、
> 今年中に、日本建築学会他にて、発表しますので、

とのことなので楽しみに待たせていただきたいと思いますが、佐藤大規氏による復元案の発表もあり
現時点で幾つかの質疑を提示させていただきたいと思います。

1)基本的なことなのですが、日ノ本三十之さんは「天守指図」支持派なのでしょうか?

2)次に天主台の形状についてですが、今日一般には「不等辺八角形」と紹介されることが多いものの、
 「天守指図」が紹介される以前には「不等辺七角形」というのが昭和15年の調査報告書の記述にあり、
 その後の論文等そして読売新聞滋賀版に掲載された「安土城 〜信長の夢〜」でもそのように記されているように
 考古学的認識ではないかと思いますが如何でしょう?

 確かに天主台の上面一杯に本体を建てようとすれば入り口部分の関係で「不等辺八角形」にはなるようですが、
 基本はあくまで「不等辺七角形」であり、その上、北東角は虎口との関係での隅切りであったとことはその部分に
 対応する石蔵内辺を見れば明らかであり、基本は「(不等辺)六角形」ではなかったのかとすら思います。

3)上記のことから、日ノ本三十之さんご指摘の「正四辺形の内接不整形」はその通りであったと思われますが、
 「不整形」はあくまで地形の都合による地取り=縄張り先行の結果と考えます。
 当然のことながらその築造に当たっては基本となる天主本体(身舎部?)の規模の提示があったとは思いますが、
 施工に当たっては石工の考えが専行し、その上で大工はそれに合わせる形で本体を建てたものと思います。

 その場合、天主本体も「不整形」に建てられた可能性が高いように思われるかも知れませんが、必要最小限
 に止めたり「正整形」に建てられた可能性も否定できないと思いますが日ノ本三十之さんは如何にお考えに
 なられますか。

4)日ノ本三十之さんは淳也 さんの「安土選(占)地」理由にやや否定的?なようですが、
> 竹生島のほぼ真南ということで、真南ではありませんし、、、、平行四辺形も精度が甘いようですし、、、
 というのは一寸瑣末的な指摘かと存知ます。
 
 その上で信長がより高地にある観音寺城ではなく眼下に見下ろされる安土に「天下城」を築いた理由ですが、
 自分はむしろその点にこそ理由の一つがあったと考えます。
 それは即ち、安土城が「見られることを意識していた城」であるからに他ならないからでしょう。

 「山水画に見られるような絵画世界の具現化」
 それも信長の構想の中にあったものと考えます(小林千草・千草子『原本「信長記」の世界』他)。


以上の中でも2)および3)は「(不等辺)八角形」ということ自体に疑問を呈するものであり、それは淳也 さん御説にも
関わることなので日ノ本三十之さんのお考えを伺えれば幸いです。


タイトルRE:Tmさん
記事No: 239 [関連記事]
投稿日: 2005/04/22(Fri) 01:08
投稿者日ノ本

Tmさん、はじめまして。
書き込み ありがとうございました。



> 1)基本的なことなのですが、日ノ本三十之さんは「天守指図」支持派なのでしょうか?
>

支持派でも、反対派でもありません。

ただ、天守指図のように、南北と、
石倉が示す、直交しない二辺等を意識した、
下層部を持つ天守が築かれていたと考えます。


敷地に対応した石垣になっているとか、
石垣が、石工の未熟さとか、縄張り先行などの
当時の技術を都合よく誤って、侮っておられる論には組しません。
天守台の実測測量図をみての確信です。

Tmさんは、安土城を、研究発表するつもりの者がと、不思議がられるかもしれませんが、
信長の天守が、何故、安土に築かれたかを論じるのに、私自身は、安土城について深く研究している研究者では、ありません。
佐々木氏にあてた手紙で書いていますが、私のライフワークの研究となりつつある、研究の副産物なのです。
(城にたいする興味は、中学生のときからあり、高校生のとき、たいくつな授業中に城の設計図を描き、職員室によばれた、懐かしい体験があります。その後、現在、建築の設計を業としています。)
城は、いまも大好きです。安土城は、以前から、観音寺城の関係他で、疑問に感じることが多々ありました。



> 2)次に天主台の形状についてですが、今日一般には「不等辺八角形」と紹介されることが多いものの、


私の手元には、安土城郭研究所から、送っていただいた、天守台実測図4枚が手元にあります。
手に入れる依頼を電話で安土城郭研究所にお願いした時、Tmさんの指摘された、サイト【読売新聞滋賀版に掲載された「安土城 〜信長の夢〜」】を見た後でしたので、不等辺七角形の天守台の実測測量図を手に入れたい旨、お願いしましたら、送ってくださった、担当の方が、不等辺八角形です。と答えられ、そうなんだ〜
と、思ったことを覚えています。その程度でした。

天守台の石倉は、不等辺六角形(平行四辺形の変形)で、実測終了でしたが、外郭の石垣は、未了という電話内容をあらわす内容の資料でした。

私は、この資料で、充分なんです。
私の主張を、調査実測図は、阻害しないし、証明してくれました。



> 3)上記のことから、日ノ本三十之さんご指摘の「正四辺形の内接不整形」はその通りであったと思われますが、
>  「不整形」はあくまで地形の都合による地取り=縄張り先行の結果と考えます。

建築の実務設計者として自信を持って言います。

石倉内部の礎石は、正確に、南北、東西配置しています。
また、石倉は、正確に、二辺が正確に東西平行をなし、
そして、他の長い二辺も正確に南北からある角度をなし平行です。
この平行は、Tmさん、偶然になったと思いますか?
偶然平行になるわけがありませんよ、
石工も、正確な技術を持つひとたちだったんです。

天守台の基部、更地に造成でない理由ありますか?
施工誤差の範疇ではありませんから、理由がないのに、
施工しづらい形態にわざわざしません。
下層部の不整形は、意味、理由があって作られたんです。



Tmさん、私の論では、八角形でも、
七角形でもどちらでもいいのです。
どちらが、より信長が採用しただろうとは、
述べることはできますが、

Tmさんのいう、敷地に合わせたという説は、
答えが見つけられないから、の逃避説です。
古代、中世技術あなどるべからず!です。



> 4)日ノ本三十之さんは淳也 さんの「安土選(占)地」理由にやや否定的?なようですが

着眼点は、すばらしいです。
えらそうに書いていますが、30k程度で、数百メートルの誤差は、日本の山々を越えた
位置選定なら、認めてよいと考えますが、竹生島と安土には、障害物ありませんので、
私は、認めません、
繰り返しますが、中世技術あなどるべからず!です。



 それは即ち、安土城が「見られることを意識していた城」であるからに他ならないからでしょう。
>
>  「山水画に見られるような絵画世界の具現化」
>  それも信長の構想の中にあったものと考えます(小林千草・千草子『原本「信長記」の世界』他)。


Tmさんの説は、新説ですね。

城は、仰ぎ見られることに、意義があったとするのが通説ですから、、、

でも、それでも、信長は、この地を選んだのです。


今年いっぱい、がんばります。
期待される結果、展開できるようにします。

Tmさん、管理人淳也さん。     日ノ本


タイトル日ノ本さんへ再度質問です。
記事No: 242 [関連記事]
投稿日: 2005/04/23(Sat) 00:30
投稿者Tm.

日ノ本さん、丁寧なるお返事をいただきありがとうございます。
その上で疑問に思うことを再度質問、そして反論させていただきます。


1)基本的なことなのですが、日ノ本三十之さんは「天守指図」支持派なのでしょうか?
>
> 支持派でも、反対派でもありません。
>
> ただ、天守指図のように、南北と、
> 石倉が示す、直交しない二辺等を意識した、
> 下層部を持つ天守が築かれていたと考えます。

この点は正直言って、故宮上氏にも代表される矩形(四角)天主説の弱点でした。

地山成型の際に強く影響を受けたであろう、単純に言えば自然の地形に石垣を貼り付けた外周部と違い、
造成された平面の上に積み上げたであろう内周=石蔵のそれは建物本体の形状に合わせて造成されたと
考えるの自然であり、当然のことながら森さんの復元図の平面もそれを考慮されたもの?となっています。

> 敷地に対応した石垣になっているとか、
> 石垣が、石工の未熟さとか、縄張り先行などの
> 当時の技術を都合よく誤って、侮っておられる論には組しません。
> 天守台の実測測量図をみての確信です。


まあそれもケースbyケースのことであり、最近ご活躍の研究者の方もそれによって初期の天守に
望楼型が多いことを力説されていますが、多少の歪みはともかく、極端な長方形(や台形、多角形)の
天守台石垣のは最初から意図されたものと考えるのが妥当であり、最近での望楼部を持たなかった
天守の例が報告されつつある中では、「天守は低層の建物に望楼を載せたものを祖形として発達
していった。」と考えるのが妥当ではないかと思っています(これは別の話ですが)。


2)次に天主台の形状についてですが、今日一般には「不等辺八角形」と紹介されることが多いものの、
>
> 私の手元には、安土城郭研究所から、送っていただいた、天守台実測図4枚が手元にあります。
> 手に入れる依頼を電話で安土城郭研究所にお願いした時、Tmさんの指摘された、サイト
>【読売新聞滋賀版に掲載された「安土城 〜信長の夢〜」】を見た後でしたので、不等辺七角形の
>天守台の実測測量図を手に入れたい旨、お願いしましたら、送ってくださった、担当の方が、
>不等辺八角形です。と答えられ、そうなんだ〜 と、思ったことを覚えています。その程度でした。
>
> 天守台の石倉は、不等辺六角形(平行四辺形の変形)で、実測終了でしたが、外郭の石垣は、
> 未了という電話内容をあらわす内容の資料でした。
>
> 私は、この資料で、充分なんです。
> 私の主張を、調査実測図は、阻害しないし、証明してくれました。

担当の方が「不等辺八角形」ということにどれ程度の確信をもって応対されたのかは存じませんが、
最近でも佐藤大規氏による復元案関連での発言においても「不等辺七角形」とされており、その上で
不等辺六角形(平行四辺形の変形)の石倉に対しその北東部を隅切りしたのが天主台外周部の
形状(不等辺七角形)であろうということを自分は言いたい訳で、日ノ本さんが「不等辺八角形」と
いうことに拘っているのかどうかということをお聞きしたかった次第なのですが、次のお答えからすると
特に「不等辺八角形」に拘られている訳ではないようですね。



3)上記のことから、日ノ本三十之さんご指摘の「正四辺形の内接不整形」はその通りであったと思われますが、
 「不整形」はあくまで地形の都合による地取り=縄張り先行の結果と考えます。
>
> 建築の実務設計者として自信を持って言います。
>
> 石倉内部の礎石は、正確に、南北、東西配置しています。
> また、石倉は、正確に、二辺が正確に東西平行をなし、
> そして、他の長い二辺も正確に南北からある角度をなし平行です。
> この平行は、Tmさん、偶然になったと思いますか?
> 偶然平行になるわけが会いませんよ、

> 石工も、正確な技術を持つひとたちだったんです。

自分もそれらのことを否定する訳ではありませんが、石工たちが技術を習得していった過程については
見解の相違があるようですね。

> 天守台の基部、更地に造成でない理由ありますか?
> 施工誤差の範疇ではありませんから、理由がないのに、
> 施工しづらい形態にわざわざしません。
> 下層部の不整形は、意味、理由があって作られたんです。

まず基本的なことですが、自分はあの天主台の全面に天主本体が建てられていたとは考えていません。
そのことは宮上氏による「天守指図」批判以前からも言われていたことであり、天主台というより天守郭と
いう表現が適切であろうと思っています。

その意味においては外周部の形状は本体の施工上の問題になるとは見ておらず、むしろ問題は内辺=石蔵
の形状であり、それこそ素直に考えれば、天主本体はそれに対応した「不等辺六角形(平行四辺形の
変形)」であったと考えるのが自然であろうことは冒頭にも述べた通りです。

> Tmさんのいう、敷地に合わせたという説は、
> 答えが見つけられないから、の逃避説です。
> 古代、中世技術あなどるべからず!です。

自分の言った「敷地に合わせた」とはその郭の造成に伴うものであり、いわば縄張りの問題であり
石工の技術論云々ではありません。ですから、石工たちは指示された通りに、もてる技術の粋を
発揮して石垣を積んでいったと考えています。
そうしたなかでは、やはり不等辺六角形である石蔵の形状理由についての説明は避けて
通れるものではなく、宮上氏による説明をお聞きしたかったところでもあり残念でもあります。

その上で自分の導き出した答えは、石蔵=地階は居住部分であった天主の一階〜六階の
部分はとは異なる付加物であったということです。
『安土日記』の記事においても単独の項目が立てられていないことがその根拠になります。

石工は上に建てられる木造部の規模についての(当然、形状についてもですが)情報は与えられ
ていたものの、石蔵の構築についてはその裁量を委ねられており、その結果が不等辺六角形の形状
であり、それはすなわち天主本体ではなくあくまで天主郭(台)外周の形状に合わせたものでは
なかったのかと考えます。
おそらくは外周部の石積みに対する負荷(将来の孕みだ出し)などが考慮されたのではないでしょうか。

自分からは逆に日ノ本さんに、内部に取り込まれ外観には影響しない石蔵までも不等辺六角形
にしなければならない必然性が技術的に存在するのか(※呪術的要因以外にもという意味ででも
ですが・・・)をお尋ねしたいものです。
あえて天主本体=木造部と石蔵との形状における緊密性を技術面において主張するとすれば、
天主本体が石蔵のそれに沿う形で一間ないし二間ほどの幅を以って積まれた石垣の上に
建てられていたと仮定した場合だと思うのですが・・・・・



4)日ノ本三十之さんは淳也 さんの「安土選(占)地」理由にやや否定的?なようですが
>
> 着眼点は、すばらしいです。
> えらそうに書いていますが、30k程度で、数百メートルの誤差は、日本の山々を越えた
> 位置選定なら、認めてよいと考えますが、竹生島と安土には、障害物ありませんので、
> 私は、認めません、
> 繰り返しますが、中世技術あなどるべからず!です。

竹生島との関係についていえば、ほぼその南方に在れば如何にでも言い繕えるものではないでしょうか。
都市の造営における土地選定での「方位学云々」はよく聞く話ですが、それらにどれだけの厳密性が
指摘できるのでしょうか?
たとえ日ノ本さんが認めまいがそれなりに納得出来るものだと思いますよ。

失礼ながら日ノ本さんには「中世技術あなどるべからず!」ということに執着し過ぎの感が見受け
られますがいかがでしょう。
「技術論云々」をいえば素人の自分なんかよりも遥かに専門の知識(※石積みについても)を
もたれた方は当然ことながら多く、そうしたなかで日ノ本さん自身はそうしたことを専門的に研究
=学会などで論文を発表されてこられた方なのでしょうか?


> 今年いっぱい、がんばります。
> 期待される結果、展開できるようにします。

日ノ本さんは安土城について深く研究さている方ではないとのことですが、素人の自分が言うのも
何ですが、安土城についての研究の歴史は長く数々の論文等が発表されており、自分はその収集に
努めており目を通しています。
そのような自分の安土城についての研究は、はっきり言って「自己満足」です。

自分自身で得たと思う「答え」についても常に自問自答しており、完全に確信をもてるまでは正式な
発表(※活字媒体などで)は行わないというか出来ないと考えています。
そのような中でネットで議論に臨もうとすることは先方に失礼なことは重々承知のことであり、それによって
ある種の認知を得ようとも考えていません。
あくまでも「自己満足」の為なのですから。

気分を慨する発言等もあるかとは思いますが、「探究心」のなせる業とご容赦願うと共に、少しでも
ご研究に寄与するところがあればと存ずる次第です。


タイトルTm
記事No: 255 [関連記事]
投稿日: 2005/04/29(Fri) 13:54
投稿者日ノ本

私の研究課題は、
学生時代に、厳島神社の社殿構成の研究から始まって『神社の占地』です。
建築条件の悪い、海上に何故、社殿を築いたのか、特異な社殿構成は何故、構成されたかの研究でした。
設計実務者を目指す学生でしたから、未熟な論文ですが、いままでに指摘されていない成果をあげて学生生活を終了しました。
しかし、特に占地に関しては、学生時代の成果の内容では満足していませんでしたので、実務以外に、数十年経た今も研究を続けています。
今現在は、確信をもって、答えられる内容を得るに至りましたが、その証明の意味も含めて、他社の占地の研究もすることになり、研究対象が、日本中の神社(有名古社が中心)に拡大しました。

掲示板にも書きましたが、安土城は、この研究の副産物です。

私は、昨日、出張から、帰りました。
昨日は、宿泊先近くの神社に行きました、
その神社には、その県の神社庁があり、たずねてみると、神社庁参事の方が応対してくだり、短い時間でしたがお話する機会がありました。
安土城に関しても話がおよびましたが、Tmさん同様、ありがたい意見をいただきました。
私は、先人の研究成果に敬意をはらいます、
数十年前の、私の研究成果もこれから、自分自身で修正しますが、多くの人々が、納得できるよう研究方法にも心がけています。
特に今回、発表する内容に関しては、情報収集して、可能な限り、検証しておくべきなのは、学術研究発表では、最低の必要事項と充分心得ています。

直接的な返事では、ありませんが、Tmさん
もうすこし、まってください。                   日ノ本三十之


タイトル天守台石垣天端形状と天守郭の形状(下層階)
記事No: 256 [関連記事]
投稿日: 2005/04/29(Fri) 15:48
投稿者日ノ本

>ですが・・・)をお尋ねしたいものです。
あえて天主本体=木造部と石蔵との形状における緊密性を技術面において主張するとすれば、
天主本体が石蔵のそれに沿う形で一間ないし二間ほどの幅を以って積まれた石垣の上に
建てられていたと仮定した場合だと思うのですが・・・・・



私の手持ちの信頼できる天守台の資料は、書き込みした、安土城郭研究所からの実測図の
コピーです。
天守台の石倉は書きこまれています。
天守台の外郭の石垣は、未調査との連絡を受けているとううり、ドハの印のままです。
安土町のHPには、内部の石倉に準じた外郭の石垣ガ、明示した地図がありましたが、まだ、問い合わせしていません。

Tmさんの質問を誤解して答えているかもしれませんが、
このサイトに、他の人の書き込みで、天守台上部の形状とは関係なく、
天守閣を、
私たちの住む小さな住宅感覚で、天守台をあたかも造成した宅地と思い、天守閣をそれに建てる小住宅と思い論じられる説がありました。


そこで
私の見解です。

建築は、古今、雨風や、気温他、地震、等の自然現象との対処が重要です。
一番は、雨への対処です。
家の役割ですし、家の寿命に一番影響与えるからです。
城、
石垣の上に建つ櫓(天守含めて)は、通常石垣の上に土台を乗せ、築かれます。
漆喰の下地組み、仕上げの漆喰、さらに板を張ることもありますが、ほとんどが、仕上げ表面と石垣上部の面とは、ほほ出面は一緒くらいです。厳密にいえば、石垣より、数センチ後退しますが。石垣より出した納めが雨水対策上ベターです。
小倉城や熊本城のように張り出す天守もいくつか有ります。
また、雨水対策だけではなく、城は、侵入者への足がかりにもなる配慮もありますし、、、
防衛上有効な形状です。
石落としが、その意図を表しています。

何故か。土台(木材)は、乾湿が、交互にくる状況が、一番腐朽対策上から避けたいのです。

普通の住宅や、建築では、根まわりといわれる部分です。

壁面は、通常、屋根の庇屋根(壁からでた屋根部分)が、対処し護ってくれています。
しかし、風が吹くと根回りから水が浸入するおそれがあるので、重要な部分なのです。
特に、雨や風を受ける面の大きい大規模建築(平面状の大きさ、高さ)である安土城天守は、大雨時には、受け面が大きいですから、太量の屋根面、壁面からの排水対策が必要です。
特に石倉のある構造では、ない天守や、櫓以上に配慮が必要です。

石垣から張り出すことは、小倉、熊本城が実現したように、上部の過重対策が行われた構造なら可能ですし、防衛上からも利にかなっています。
しかし、天守台に、普通の住宅なら、犬走りというような余地を充分設けて築くことは、大量の横殴りの雨水排水対策が必要で現実的ではありません、
天守台(郭)石垣形状を無視して、特に、石垣の内側に天守が築かれるとというお考えは、以上の事からもありえないとおもいます。

勿論、Tmさんのようなことは、以下のようにすれば可能です、
石垣とその余地のためにのみ屋根、庇を作るのです。



日ノ本


タイトルRe: 天守台石垣天端形状と天守郭の形状(下層階)
記事No: 257 [関連記事]
投稿日: 2005/04/29(Fri) 18:21
投稿者Tm.

> しかし、天守台に、普通の住宅なら、犬走りというような余地を充分設けて築くことは、大量の横殴りの雨水排水対策が必要で現実的ではありません、
> 天守台(郭)石垣形状を無視して、特に、石垣の内側に天守が築かれるとというお考えは、以上の事からもありえないとおもいます。
>
> 勿論、Tmさんのようなことは、以下のようにすれば可能です、
> 石垣とその余地のためにのみ屋根、庇を作るのです。

日ノ本さんが否定されている「犬走りというような余地」を持っていた天守ですが、
実例して会津若松城のそれがあり、それは秀吉の大坂城に倣ったものではないかとも
言われていますが(宮上氏以外にも)いかがでしょう。
その秀吉は信長の安土城に倣ったのではないでしょうか?
おそらく、日ノ本さんがご指摘のような排水対策(雨落ちの排水等)もある程度は考え
施されていたものと思います。

ただし安土城天主が完成後三年ほどで失われたのに対し、その後三十年ほど存在した
大坂城天守ではやはりその問題が深刻化したとみえ、日ノ本さんがご指摘のように
庇を以って腰曲輪を覆っているようです(『冬の陣図屏風』他)。
しかしながら、いかに当時一流の技術者を動員して建立されたとはいえ、安土城天主は
大型天守の先駆けであり建築としては完成されたものではなく「試作品」であって、
なにより技術者の知恵以上に信長の嗜好が優先された結果、「無理」の多い建築でも
あったと自分は考えます。

また、天守台より平面規模の小さい天守の実例としては淀城天守があり、駿府城天守も
巨大な天守台の「石蔵」の中に建てられていたようですね。
ある意味、姫路城天守のような連立式天守群も天守郭に建てられたものと言えそうですし、
高知城本丸などは自分の主張する安土城天主郭のそれに近いと思っています。

なお最近自分は、佐藤大規氏が当初、懸造りを想定してた如く、天主台外辺の一部に
懸造りの回廊=多聞櫓のようなものが建てられていたのではないかとも考えています。


タイトルRe: 天守台石垣天端形状と天守郭の形状(下層階)
記事No: 260 [関連記事]
投稿日: 2005/04/29(Fri) 23:22
投稿者日ノ本

天守閣に懸造り?ですか、
天守台の周囲に礎石でも見つかったのでしょうか?
石垣の一部、段上に礎石代わりになる構造の痕跡でも見つかったのでしょうか、
建築学会に発表されたという論文,私も早速探してみてみます。
というより、天守台の石倉の形状です。外郭の石垣形状とは、無関係な形状でつくれます。そのことに注目してください。
天守台の石垣の最下部より、石倉床レベルは、高いはずですから。石垣工事中の途中で、天守閣の最終プランができたのなら、石垣の形状の変更修正もできますし、なによりも、石倉を、平行四辺形を変形した多角形にする必然ありません。
内部の石倉の深さ等により必要厚さは、変わりますが、構造上、納まり上の必要厚ささえ確保さえすれば、外郭が(不等辺)八角形であろうが、七角形であろうが、当然、石倉は、正方形や、長方形平面にできるのです。 

私が信長でしたら、天守閣の形状とあわない不恰好な石垣なら作り直すよう、丹羽長秀に命じます。工事の早い時期は勿論、いや、石垣工事完了間近でも作りなおさせます。
石倉、石垣の形状は、意図があり、作られたと考えるのが自然な理解とは思えませんか。
ご指摘の他の天守閣の石垣は、複雑な形状したものはないと思っているのですが、どちらにしても、解説できる資料を手元に持っていません。
最近の復元案ですから、実態の石垣と、石倉、礎石、実測調査に基づき、史料と、大きくい違わない空想復元案でない、根拠にもとづく推定復元案が提示されたのだろうと思いますが、懸造りは疑問に感じます。
                              日ノ本


タイトル懸造りについて
記事No: 261 [関連記事]
投稿日: 2005/04/30(Sat) 10:24
投稿者Tm.

> 天守閣に懸造り?ですか、
> 天守台の周囲に礎石でも見つかったのでしょうか?
> 石垣の一部、段上に礎石代わりになる構造の痕跡でも見つかったのでしょうか、
> 建築学会に発表されたという論文,私も早速探してみてみます。

別トピで紹介させていだきましたが、佐藤大規氏は当初、「懸造り」とすることで
『信長公記』に記されている「17間に20間」の規模を成立させようとされていた
ようですが、結局は不等辺多角形の上面に納まる形を選ばれたようです。

その佐藤氏が「懸造り」の根拠としたのは、天主台南西隅下部からそれに沿う形で
発見された礎石群であったと思われます。
ただしそれでも結局は不等辺多角形にならざるを得ず、それが変更の理由ではないか
と推察します。


> というより、天守台の石倉の形状です。外郭の石垣形状とは、無関係な形状でつくれます。そのことに注目してください。

最初のレスでも申し上げた通り、そのことは天主台より小さい規模で天主が建てられて
いたと主張するうえでのネックです。


> 天守台の石垣の最下部より、石倉床レベルは、高いはずですから。石垣工事中の途中で、
> 天守閣の最終プランができたのなら、石垣の形状の変更修正もできますし、なによりも、
> 石倉を、平行四辺形を変形した多角形にする必然ありません。
> 内部の石倉の深さ等により必要厚さは、変わりますが、構造上、納まり上の必要厚ささえ確保さえすれば、
> 外郭が(不等辺)八角形であろうが、七角形であろうが、当然、石倉は、正方形や、長方形平面にできるのです。

森嶋さんも言われていることですが、自分も石蔵の深さはさほどない六尺前後で
(宮上氏のように二段石垣であったとみていません)、結果として半地式の構造では
なかったかと推察しています。
そうしたなかで、以前申し上げた孕みの問題には日ノ本さんのご指摘された雨水の
浸透も想定しており、そうしたことからも外辺からの均等化が考慮されているのでは
ないかと考えています。


> 石倉、石垣の形状は、意図があり、作られたと考えるのが自然な理解とは思えませんか。

従って、外辺=石垣の形状は縄張りの上から、内辺=石倉は耐久性を考慮したうえで
の相似形であったと考えます。


> 最近の復元案ですから、実態の石垣と、石倉、礎石、実測調査に基づき、史料と、大きくい違わない空想復元案でない、根拠にもとづく推定復元案が提示されたのだろうと思いますが、懸造りは疑問に感じます。

そもそも、佐藤氏の論文は宮上氏批判を前提に進められており、素人眼にはかなり恣意的な解釈が
なされているやに思われます。
いわゆる書院建築の広縁と櫓建築の武者走り(入り側縁)が二重に廻らされていたとする
主張については、是非とも日ノ本さんのご意見を伺いたいところです。

ただし、『城のつくり方図典』に掲載されているのは一方向の立・断面図のみであり
詳しい変更箇所や理由は不明ですから、今後の正式な発表が待たれます。


タイトルTmさん、淳也さん、
記事No: 265 [関連記事]
投稿日: 2005/05/02(Mon) 12:21
投稿者日ノ本

TmHさんとのメールに導かれるかたちで、H大M研究室の掲示板たずねて見ました。
S氏とT.M氏の掲示板の書き込みも見ました。
若い研究者は、粗い所が、あるかもしれませんが、着眼点など、優れた面も持っている事が多いです。
復元は難しい労作だと思います。創造力なければできないし、想像がもとの創造ではいけないし。
確か、ずいぶん以前のことですがT大建築史研究室には、有能な宮大工がブレーンとしていたと聞いたことがあります。
必要なことだったんだなと思います。
H大M研は、復元を実務でもしておられるみたいですし、
たしjか、厳島社の平舞台のいかだ構造を、とかれた研究室だと思います。
興味をもっている研究室です。



私は、何故、観音寺城から、見下される佐々木氏の家老格が居た出城的な安土山の地に、
あえて信長が、『天下城』を築いたのかをつきとめました。
信長が、天下布武を唱えた時期、やはり、再利用城ともいえる岐阜城を何故、使用したのか、
そのことも理由があったことがわかりました。
信長が、新しい城を、新しい場所に作らなかったのは、理由があったのです。
中古品好き、ではないのです。
淳也さんが、サイトに紹介されている中井氏が説かれた城のネットワーク
論の城、も自説を補足的に証明してくれる証拠を見つけることができました。
中井氏の説は、惜しいというより、若干ですがずれています。ポイントは、角度距離とも安土城を外れています。
淳也さんの竹生島の南の地にと同様です。安土城が、竹生島を意識していること、
また、城のネットワークが、安土城を意識していることは、勿論!間違いありません。
織田信長の城のネットワーク論は、100%同意します。
長浜城は、古い歴史がありますが、他の二城は、明智光秀が関係しています。
この城のネットワークの提案者は、明智光秀かもしれません?

城の四辺形ネットワークが正確であっても、
信長の家臣達の城群との構成で、占地理由になるのでしょうか、
天下城の意味、意義、価値が生まれるでしょうか、
安土城の占地の根拠には、なりえないと考えます。
説得力がないです。
勿論 天下城の価値を高めることには、なります。


安土城の占地理由を絶対的に証明してくれるのは、天守台の位置と、
それを、さらに、確実に証明するのが、天守台の石垣遺跡なのです。



ですから、天守台の石倉内部に現れている、整然と東西南北に並ぶ礎石群や、
正確に東西の方向を示す、石倉の二面、さらに、主要な南北線をずらした平行な二面が成す、平行四辺形状を
崩した多角形の石倉、
さらに、それに準じた形の外郭であっただろう、天守台石垣は、
石倉と石垣外郭裾野の距離が、10数メートル程度あり、Tmさんのいう均等暑さで築かれています。
外側片面、表面石垣と裏込め石、それが土類(土塁)をはさんで、石倉側内面の構造であろうが、
これらが、天守台の建つ段のレベルに対応して厚さを成しているようである。
これら天守台石垣が、偶然に成りえる形状でないことは疑いもないはずなのですが、
石工集団の技術不足が生んだというのは、?恣意以外のなにものでもありません。
石工集団の技術がなければ、序のような形態の天守台できません!
何故、角隅が増えたか、
答えは簡単です。
鋭角の角隅は、構造的に不利であるからです。
石垣構造と木造の天守閣構造を安定した、より丈夫な構造体にするためです。
私の研究では、この隅切りも適当に行なってはいません、
意図をもって、天守閣の形態から石垣天端の形状を決めてあるようです。


私の天守閣への考察を書きます。
以下は、やや乱暴かもしれませんが、率直な考察です。

内藤氏復元案の天守閣に近い、天守閣が建っていたと考えます。
つまり、天守台石垣天端形状に対応した天守閣ガ建っていたと想像します。

理由1
内藤氏の実質発見した、加賀天守指図以外、指図は発見されていない。
(吹き抜けが、記述にない、あるいは、間数が記述と違うとのことですが、)
吹き抜けについては、記述にないからないとはいいきれませんが、
指図(設計図)が最終指図でない可能性が高いト考えます。
文献史料と、遺跡と大きく違わないことが、価値を維持しています。

論外
古今、通常、設計計画図は、何案もつくりますよ、
Tmさんの家、私が委託されて、設計したとします。何度も打ち合わせして、設計図をつくりますが、
ほぼ最終案に近い案になった後でも何枚か細部を変えた案提示しますよ、
そして、実施設計図です。工事中でも設計図と違う変更することも当然有ります。
最終指図でないほうが、リアルです。
何故なら、軍事機密ですよ、
最終指図が残っている方が不自然では、ありませんか。
吹き抜けあったほうが面白いですけどね、

安土の天守台跡が、第一絶対の史料です。


理由2
上に整形の天守閣を載せるのでしたら、100歩譲って、変形多角形の石垣の外郭をつくり修さなかったとしても、
天守閣の変形石倉、整形の天守閣に不都合のないよう、石倉、を整形な正方形か長方形平面にするよう、
石垣を追加する方法も可能です。
内側を壊して手直しするより合理的です。
私の考えは、天守閣の石垣の直上階が、石垣の天端の形態に準じた変形多角形でも、それを無視した整形の長方形平面であろうと、
整形の石倉が可能で、構造上不都合なく石工も容易いと言うことです。
Tmさん、これに対しては、整形天守閣を主張する人たちは、何か、書いておられますか?


今までも書いていますが、石垣の形状は、指図とうり行なわれたのです。
天守台石垣については、
安土城郭研究所の測量調査図には、北面、東北東面、西南西面等は、書き入れないですが、
南面と南東面の二面、石垣の最下部の石垣線が書き込みして有ります。
レベルが違いますから、厚みではありませんが、
わりと長い石倉南面側i石垣は、石倉面と天端線と下端線は全て平行を成し、もう一面の短い石倉南東面については、
石垣天端と平行です。(復元石積みの範囲か、わかりませんが)
15m程度の巾で、片面、表面石垣と裏込め石とで、それが土類(土塁)をはさんで、両面でこれらを実現しているんです。
この石積み技術は実に正確です。高度な築造技術ではないでしょうか。
だから、石垣の形態は、偶然的な形態ではないと判断しているのです。
何より、その成している角度が、私の論のよりどころです。

簡単に書くと、下層階では、石垣、石倉、石倉内礎石群より、
二つの長方形平面を合成した形態を成していると考えています。
内藤案のような平面です。
これらは、二軸を成しています。
南北(東西)軸と、もう一方位の二つの方位角線が交わっていることを表しています。
この地が、天下城のポイント(交差点)であることを示しています。
それを天守閣自体の石倉を含む、天守閣の下層で表象しているのです。
多角形になったのは、この二長方形を結んだのです。ですから、変形多角形の平面になったのです。
そのことで、角隅をとった多角形となったのです。
その隅切りも、上に書いたように適当にはしてはいません。
上記内容を表象するような平面に適合した隅切りが行われているのです。


安土城は、天下城として、ふさわしい位置場所であると確信し選ばれた地です。
その選択の根拠を、意味を天守閣の形態でも表したのです。
建設場所安土の意味、その表象として天守台、天守閣は作られたが、結論です。


肝心なことを書いていないので、いらいらさせていると思いますが、公表まで
お待ちください。
天守台の形態が、天下城の地、それを示しているのです。

いままでの繰り返しですいません。


タイトルRe: Tmさん、淳也さん、
記事No: 266 [関連記事]
投稿日: 2005/05/02(Mon) 16:08
投稿者Tm.

Re: Tmさん、淳也さん、 画像サイズ: 432×596 (12kB) > 内藤氏復元案の天守閣に近い、天守閣が建っていたと考えます。
> つまり、天守台石垣天端形状に対応した天守閣ガ建っていたと想像します。

天主台の全面に天主本体が建てられていたとすると、各階とも記録されている部屋
の合計床面積以上の平面規模となってしまい、身舎の周囲にただっ広い入り側を巡らすか、
記録にはない新たな部屋を想定するしかないものと思われますが、その点について
日ノ本さんはどのようにお考えになられるのでしょうか?
果たして「吹き抜け」がその答えになるのか、後代の天守との関係において証明できるのかという点で
疑問なのですが。

左図は以前も掲載させていただきましたが、「安土山御天主之次第」に基づき考察
したものであり、
これを天主台の形状に合わせることも可能ですが矛盾する点もいくつか生じてしまいます。



> 理由2
> 上に整形の天守閣を載せるのでしたら、100歩譲って、変形多角形の石垣の外郭をつくり修さなかったとしても、
> 天守閣の変形石倉、整形の天守閣に不都合のないよう、石倉、を整形な正方形か長方形平面にするよう、
> 石垣を追加する方法も可能です。
> 内側を壊して手直しするより合理的です。
> 私の考えは、天守閣の石垣の直上階が、石垣の天端の形態に準じた変形多角形でも、それを無視した整形の長方形平面であろうと、
> 整形の石倉が可能で、構造上不都合なく石工も容易いと言うことです。
> Tmさん、これに対しては、整形天守閣を主張する人たちは、何か、書いておられますか?

繰り返しになりますが、「整形天守閣案」において不等辺多角形の石倉との関係は
避けては通れない問題ですが、それを不用意に正方形に復元(改竄)した某氏の案は別として、
これまでそのことに論及されたものは拝見していません。

それゆえ、石蔵自体の性格と耐久性への配慮という自分の考えを述べさせていただきました。


> この石積み技術は実に正確です。高度な築造技術ではないでしょうか。
> だから、石垣の形態は、偶然的な形態ではないと判断しているのです。
> 何より、その成している角度が、私の論のよりどころです。

自分も決して石工たちの技術力を侮っているわけではありません。
しかしそのうえで、天主一つをとっても安土城は未曾有の建築であり、
様々な相違工夫がなされたものと思います。


> 安土城は、天下城として、ふさわしい位置場所であると確信し選ばれた地です。
> その選択の根拠を、意味を天守閣の形態でも表したのです。
> 建設場所安土の意味、その表象として天守台、天守閣は作られたが、結論です。
>
>
> 肝心なことを書いていないので、いらいらさせていると思いますが、公表まで
> お待ちください。
> 天守台の形態が、天下城の地、それを示しているのです。
>
> いままでの繰り返しですいません。


日ノ本さんのご研究が発表され、どのような反響を呼ぶのかを楽しみにしております。


タイトルRe: Tmさん、淳也さん、
記事No: 267 [関連記事]
投稿日: 2005/05/02(Mon) 19:29
投稿者日ノ本

私の研究課題は、日本各地の神社(有名古社が中心)の占地です。
安土城は、研究成果の数十分の一です。
しかし、寄り道である、
安土城の占地研究が、本来の神社占地研究に大いに役立ちました。

天守閣に関する考察は、正直、Tmさんと論争する、知識も意識も現在、持ち合わせていません。
建築設計の実務家として、感想を述べた程度のものです。
しかし、安土城占地の理由、根拠を発表する際、天守台の形、位置が重要です。
その上に建てられた天守閣についても、今回、Tmさんとのやりとりで、各氏の復元案の考察は、一通り調べておく必要性は、改めて思いました。


Tmさんや、淳也さんが、私の考察に賛同者となっていただけるよう、内容を検証しようと思います。発表する際は、掲示板に書き込みさせてもらうつもりです。
では、しばらく、失礼します。


タイトルお元気ですか日ノ本さん
記事No: 313 [関連記事]
投稿日: 2006/03/16(Thu) 23:28
投稿者Tm.

> Tmさんや、淳也さんが、私の考察に賛同者となっていただけるよう、内容を検証しようと思います。発表する際は、掲示板に書き込みさせてもらうつもりです。
> では、しばらく、失礼します。


もうすぐ一年になろうかと思いますが、日ノ本 さん、ご研究の成果いかがでしょうか?


タイトル安土選定の理由
記事No: 268 [関連記事]
投稿日: 2005/05/04(Wed) 11:02
投稿者森嶋

はじめまして.
日ノ本さんの御考察に対して,
私の考えを言わせていただきます.

まず「信長が安土山に居城を築造した理由」についてです.
この理由は次の三つだと私は考えます.

理由1.交通の要衝であり,居住に不便でない.
理由2.山頂からの眺望が優れている.
理由3.すぐ隣に観音寺城がある.


理由1は安土に限定されませんが,
居城地選定の必要最低限の条件なので書いておきます.


東京国立博物館で伊能図の展覧会があり,見学したことがあります.
江戸時代後期の安土の地形と信長時代の地形はほぼ同じでしょう.
伊能図を見て思ったことは,
当時の安土は人工的に造ったのではないかと思われるほどの景勝地であり,
このような地形は日本全国に二つとないということです.

現在の山頂からの眺望は他の山とさほど違いませんが,
御存知のとおり,当時の安土山の三方は湖に囲まれており,
現在の山頂からの眺望とは全く異なっていて,
当時の眺望は琵琶湖随一と言ってよい,
水墨山水画の『瀟湘臥遊図巻』や雪舟『天橋立図』のような,
すばらしい景色だったと思われます.

天主一階の書院には,遠寺晩鐘の水墨画があったそうですが,
こういう風景を見たかったことも,
総見寺を安土山に建設した理由であり,
信長が景色をかなり意識して安土城を設計したことを示していると思います.

平和な時代であれば理由1・理由2だけで十分ですが,
敵に攻撃されたときに防御できるかも,
当時の信長にとって重要な問題です.

日ノ本さんはすぐ隣に観音寺城があることを否定的にとらえておられるようですが,
私はむしろ観音寺城の存在が安土選定の大きな理由だと考えます.

安土山の構造から考えて,
安土城は日常生活の安全が確保されるのであれば十分だと信長は考えていて,
安土城で篭城して戦うことを考えていなかったはずです.

発掘調査の結果によると,
安土山の大手道は幅が広く直線的であり,
山麓の大手門は100メートルに門が4つもあるという,
他の城では考えられないような防御性が低い構造となっています.

また,日常の登城ルートであったと考えられている総見寺ルートも登るのに困難ではなく,
これといった防衛施設もなく主郭部に簡単に到達します.

観音寺城は戦国日本有数の山城であり,
敵が攻めてきたという情報が入ったら,
信長は安土城ではなく観音寺城に篭城するつもりだったでしょう.

岐阜城は山頂の要塞と山麓の居館で構成されていましたが,
安土城と観音寺城も同様の関係,
つまり,安土城が山麓の居館であり観音寺城が山頂の要塞に相当すると考えます.


タイトルドイツの安土城
記事No: 326 [関連記事]
投稿日: 2007/02/01(Thu) 17:13
投稿者大陸進出

ドイツの安土城 画像サイズ: 430×590 (8kB) 信長築城時の目加田(安土)山は、琵琶湖の内湖で最大の大中(だいなか)の湖(直径4km、最深3m)に浮かぶ半島だったそうです。
大中の湖は昭和39年に干拓されてしまい、現在の西ノ湖はその一部だそうです。
そして信長が目加田山を選んだ理由が、(沖島)水軍と常楽寺港にあったのではないか?という私の仮説を裏付けてくれるリンクを発見しました!
参考にしてください。

−沖島の歴史〜沖島小学校ホームページ
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/~okisyo/okisimanorekisi.htm
−琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
http://siro.parfait.ne.jp/oumi_castle/gensetu/network/sano.htm

ところで、オーストラリアの交換留学生が僕の安土城天主閣の写真(内藤昌復元)をパウチっ子した栞を見て、これは将軍の城?と聞いてきたので、和英を引きながら
信長のことを中世の滋賀県知事(a Shiga prefectural governor in the Middle Ages)、安土城のことを知事公邸&滋賀県庁(his residence and office)、滋賀県(近江国)のほぼ中心に位置していた(which lay in the center of the prefecture)と答えてしまいました。
皆さんは外国人に信長や安土城をどう説明していますか?

また安土城同様、湖畔にノイシュヴァンシュタイン城を建てたバイエルンのルートビッヒ2世も、賢帝や哲人など神話の世界の障壁画を描かせてました。
内装は絢爛豪華な安土桃山文化そのもので、まるでドイツの安土城でした。天主閣を再建して姉妹都市になればいいのにと思いました。

−ノイシュヴァンシュタイン城
http://www.neuschwanstein.com/english/castle/gallery.htm

ルートヴッヒ2世も次のファルケンシュタイン城を建てようと計画している時に亡くなり、信長の大坂城同様、幻の城となりました。
どなたか幻の信長大坂城についてご存知のかたがいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。


タイトルRe: ドイツの安土城
記事No: 424 [関連記事]
投稿日: 2008/02/18(Mon) 05:09
投稿者日ノ本

来月日本建築学会の建築会館で発表する事になりました。

掲示板に書き込みして二年以上経ちましたが、以後の書き込みを読ませ
ていただいていませんでした。
高校2年の方の書き込みには、感心しました。文章もしっかりしていて、
こちらは、恥ずかしい限りです。

天主台最頂部が、正方形に内接する二辺X2が並行する天主台の多角形が、意図的な構成なのは理由があると書いていましたが、その根拠も
やはり、神社鎮座法と関係が有ります。

神社鎮座法と書くと、すぐ風水(陰陽五行説と習合)になりますが、そ
んな吉凶占いでは、土地評価はできても位置確定はできません。(できるのが風水かもしれませんが、公開されている風水説資料ではという事
です、)

神社は、古代信仰、自然の山等を信仰する土着的な信仰から発祥したと
これまでいわれていますが、全く違います。全ての名神社(有力、有名
古社)は、位置が計画され配置されています。まさかと思われるでしょ
うが、そうです。時代を超えて、鎮座法は受け継がれていたようです。誰も信じ難い内容ですが、歴史学者や民俗学者の言っている事は、根拠のない推論ばかりなのです。
神の事とする為に、神秘性を与え、多くの隠し行為がある文献に惑わされているのです。
それはともかく、、

五山八地域を基点とした正確な測地術により決められています、神社に
限らず、城や都、日本の近代までの重要建築は全て、神社鎮座法により
決められ、神社鎮座関係と関わるよう決められています。
城は、古代城、大野城、岩城城、鬼城山などから戦国城、封建城の有名な城は全て、安土城と同じなのです。
しかし、安土はその中でも特別、重要な場所でした。

五山の内の二山が、富士山と大山です。
富士山の真西約470kmの同緯度上の山が、伯耆富士。出雲富士の大山で
す。
その二山の真中が安土山です。
勿論、この経度上、子午線上には多くの山があります。
この山は、金華山、岐阜城と関係のある山だからです。
金華山は、鎌倉幕府、室町幕府、秀吉の大阪城、江戸幕府もこの金華山
と関わる地に本城を築いています。関係を持つ構成にしています。
金華山は、武門の霊山なのです。美濃と尾張を領有した信長が、将来の
発展性が有る尾張那古屋から、美濃に偏した岐阜に本城を移した理由は
その為です。

では、これで、お別れいたします。
日ノ
{


タイトル安土城、外壁方位角
記事No: 269 [関連記事]
投稿日: 2005/05/05(Thu) 01:43
投稿者淳也

日ノ本さん、安土城の占地論、発表を楽しみにしております。

さて、
日ノ本さんに影響されて、安土城と周辺の方位角を調べてみました。

信長の出身地である、名古屋との関係をまず調べてみると、
安土城の南北線は、子午線より6°10′東にずれています、
はじめ、この東西軸の延長に熱田神宮が当たるのかと思ったのですが、
計算してみると、熱田神宮の2.5kmほど南をこの軸線は通過するので、
熱田神宮とは無関係なようです。
信長が信仰していたとされる津島神社は、安土城からの方位角87°、
安土城より北に位置するので、東西線とは全く関係が無くなってしまいます。

また、
安土城と同じ緯度にあるのは、慶長17年に移転してきた大須観音なので、
これは当然、関係無いことになります。


いきなり行き詰まったので、今度は北方面を見てみると、
気比神宮辺りが、と仮定して計算すると、今度も気比神宮の2km西を外壁線の延長が
通過していて、これも関係無いらしい。

近くで何か無いかと探してみると、観音霊場の札所である大崎観音が在ったので、
これを計算してみると、安土山との距離が33km、方位角352°となります。
安土城の南北線が、6°10′ずれていて、
外壁の瓦は、流れ方向に対して76度ずれたのが発見されていることから考えて、
外壁の傾きは346°となるので、346°+6°10′=352°10′

つまり、安土城の東西の外壁と東西の石倉壁面は、
ほぼ正確に大崎観音の方角を指している事になります。

ただ単にそちらの方角、という事であれば、偶然とも思えるのですが、
信長が安土城内に建立した總見寺の本尊に選ばれたのは、觀世音菩薩と弁財天であり、
弁財天が、安土山の真北に位置する竹生島との関係で本尊に選ばれている以上、
觀世音菩薩が、安土城とは無関係に選ばれたとは考えにくいので、

安土城石垣の方位は、琵琶湖に面する観音霊場である、
大崎観音の方角を指して築かれたと考えることができます。


と、思ったら、竹生島の宝厳寺は千手觀音の札所でもあるので、
大崎観音が無くても、總見寺に観音像を勧請する理由には困らない、らしい・・・。

とは言うものの、大崎観音には、秀吉が安土城落城の際の血痕が付いた
城材を使って本堂を造ったといういわれがあるようなので、
安土城と何らかの関係があったと思われるのだが、
いまいち根拠薄弱なので、この件はとりあえずパス。


ちなみに、安土城から距離7km方位角276°の地点に長命寺が在るので、
安土城の南北の壁面の延長、つまり東西方向の軸線は、正確に長命寺を指しているのだが、
この長命寺も観音霊場の札所、と言う事は、
安土城は、竹生島、大崎観音、長命寺という、琵琶湖湖岸に直接面している観音霊場
(園城寺(三井寺)と観音正寺は少し内陸に入っているので含めない。)
を意識して、三つの寺に軸線を向ける形で計画されたと、考えられます。


と、ここまで来た所で、琵琶湖で有名な浮御堂はまさか観音を祀ってる訳では・・・。
観音が本尊だと、この理論が成り立たなくなる、と不安になって調べてみたら、
浮御堂の本尊は千一体の阿弥陀仏だそうで、めでたしめでたし。



と、だんだんわけがわからない理論になってきたので、

日ノ本さんの発表を楽しみにしておりますので、
発表が決まりましたら、また連絡して下さい。


タイトル安土の理由(ワケ)
記事No: 320 [関連記事]
投稿日: 2007/01/11(Thu) 17:20
投稿者大陸進出

安土の理由(ワケ) 画像サイズ: 428×480 (39kB) 歴史と建築が好きな高2の者です。
 「功名が辻」で千代や一豊ではなく、信長に更に興味を持ってしまい、偶然このサイトを発見して、充実した内容にとても興味を惹かれました。天主閣は焼け落ちてしまいましたが、築400年経った現在でも原型を留めている、堅牢な基礎を作った石垣職人の、高い技術には本当に驚かされます。
 今日は、信長の大陸進出への野望を念頭に、信長が、坂本でも、長浜でも、大津でもなく、観音寺山でもなく、西ノ湖に半島状に突き出た目加田城を選んだ理由について、そこでもしもわたしが信長だったら…と仮定し、思いついたことを書き込ませていただきたいと思います。
 ご存知のように「安土」は信長の命名で、それ以前は目加田山と呼ばれ、安土城のあった場所に目加田氏の居城、目加田城がすでに存在していたそうです。
信長は目加田氏に城からの立ち退きを命じ、「安土」と改名してその跡地に安土城を築きました。美濃の稲葉山城を「岐阜」と命名し、稲葉山城の跡地に岐阜城を築いたのと似ています。
 
わたしが思うに、目加田城選択の最大の理由は、沖島水軍と西ノ湖の活用ではないでしょうか。
そして目加田城跡地に築いた信長の安土城を読み解くキーワードは、以下の3つではないかとおもいます。

1.京都(天皇)と岐阜(将軍)の中間。

天主台の独特な形についてですが、京都(天皇)⇔岐阜(将軍)軸と天道の交点であることを表したかったのではないでしょうか。
添付した画像を参照してくださし。
信長は、100年続いた乱世で財政も権威も地に落ちていた天皇家と(足利)将軍家に財政援助して、両者を再興させました
(後者は義昭の度重なる裏切りに業を煮やし、ついに滅ぼしてしまいました)。
信長の野望は、正親町天皇の皇太子を即位させて朝廷を支配し、長男、信忠に将軍として岐阜に織田幕府を開かせて、
毛利を朝敵として下した後、自らは石山本願寺跡に(大坂)城を建て、瀬戸内海を通じた独占貿易で儲けた莫大な軍資金を元手に、
大艦隊を率いて明を征服し、中国皇帝になるつもりだったと聞いたことがあります。
信長の瞑想室である6階の壁に、200年続いたパックス・ロマーナの4倍、800年の太平を実現させた周の文王、その参謀である太公望、
孔子や老子などの中国の皇帝・賢人・思想家の画が描かれていたのも、それと関係があるのかもしれません。
日ノ本66州の中心に位置する琵琶湖畔に建つ安土城でパックス・ロマーナならぬパックス・オダーナを作ろうとしていたのはないでしょうか。

2.織田水軍の軍事演習場としての琵琶湖+母港(造船所?)としての西の湖+司令管制塔としての安土城天主

沖島、坂本、堅田、打下など、琵琶湖には古くから湖上の水軍勢力が存在し、信長は浅井氏攻撃の際に、浅井支配下の湖北の港に攻撃を命じていますし、
特に沖島には攻撃用の早舟の供出を命じています。
また信長は、1573年に、自領の内海となった琵琶湖で長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型船を建造したことが知られています。
島国の日本から中国大陸に海外進出するには強い艦隊が必要条件です。
最終的に海外進出と明征服を目指す信長の目には、琵琶湖、それも西ノ湖が、自らの水軍の軍事演習に絶好の場所と映ったのでしょう。
また西の湖なら目と鼻の先にある沖島水軍の造船術や作戦のノウハウを活かすことができます。
そして西の湖に半島状に突き出した安土山頂に、実際の軍事演習を詳細に眺めて作戦を練るための司令管制塔として、地上6階の高層天主を建てたと推察します。
ということは6階は信長の瞑想室ではなく、作戦室だったのかも?
琵琶湖畔だけなら、坂本や大津でも良かったのでしょうが、艦隊には停泊する母港が必要です。
西の湖なら(織田)水軍の母港として、大規模な土木工事に時間や金が取られることなく、天然の地形をそのまま利用できます。
というわけで、観音寺山ではなく、西ノ湖に突き出る目加田城(後に信長が「安土城」と改名)こそ、我が城を築くのに相応しいと確信したのではないでしょうか。

天主の建物については、細かい意匠や色彩に差異はあるものの、どの復元案も基本骨格は(A)信長が住む3階建ての宮殿部分(地上1階〜4階)と
(B)2階建ての望楼部分(5階・6階)の2つから成り、宮殿(A)の上に望楼(B)を載せています。つまり天主=宮殿(A)+望楼(B)ということで、
望楼(B)の6階(3間四方の正方形)と5階(正八角形)については、細かい意匠や色彩に差異はあるものの共通です。
信長が宮殿(A)に望楼(B)を載せた理由は上記の、琵琶湖の軍事演習を眺めるために水軍の司令管制塔が必要だったからではないでしょうか。

人によって見解がまったく分かれる、宮殿(A)についてですが、わたしは、1階2階は天主台石垣に沿った変形多角形(南西の角は隅切りをしていないので変形七角形?)だったと思います。
また宮殿(A)上部の、3階(南北に長い長方形※下記参照)とその屋根である4階の棟は南北だったと思います。

その理由は、日ノ本さんの言うとおり、(木造)建築の常識として以下のとおりです。
−棟は建物の長い方向。
−(渡り廊下を含む)天主の設計図ができあがってから、天主の形状や荷重に合わせて基礎を作ること。
 (逆に言うと、天主台が南北に細長い→宮殿部(A)(1〜3階)も南北に細長かった→屋根の棟は南北だった)
−日本では雨じまいを重視するため、天主台をすっぽり覆う天主閣が建っていたと思います。
 石垣が天主の大荷重を支え、天主が雨水から石垣を保護する、という互恵関係で一体化していたと考えるのが自然ではないでしょうか。

3.水軍需要と運河で栄える港町

また、軍港としての西の湖に接する目加田山の麓に城下町を築けば、現在の佐世保や横須賀のように、その艦隊への砲弾・
食料など物資の補給や水兵相手の商売で繁栄できます。
すでに西の湖には中世からの荘園の年貢の積出港であった常楽寺港がすでにあり、これを再利用し拡大することで素早い城下町の建設が可能であったと思われます。
楽市楽座で日本全国から商人を集めたのも、織田水軍への物資の補給、繁栄した安土城下町から上がる税金を、
自らの艦隊の装備強化に充て、石山本願寺での毛利軍に勝利し、更に大陸進出を目指すためではないでしょうか。

2010年のバンクーバー五輪に合わせて、安土城の天主台に、ハリボテで実物大の安土城天主を天主の石垣に作って欲しいと思います。
信長DNAの織田信成さんが金メダル獲得の暁には、安土城に信長の格好で凱旋帰国して欲しいと思いますがいかがでしょうか?

西の湖を実際に見たこともなく、思い違いや全くの妄想が多々あると思いますが、素人の戯(たわ)言と聞き流してくださればさいわいです。
乱筆・乱文失礼しました。


タイトル安土
記事No: 375 [関連記事]
投稿日: 2007/09/29(Sat) 14:28
投稿者大陸進出

宮元健次著「神社の系譜 なぜそこにあるのか?」(光文社新書)
立花京子著「信長と十字架−天下布武の真実を追う」(集英社新書)

 ↑これらの2冊を読み、だんだん安土占地の理由が判ってきました。
 前者は季節を知り、未来を予想する神社のネットワークの解説や天海による徳川家康の神格化のノウハウ=「日吉大社(山王大権現)−岡崎城(生誕地)−駿府城−久能山」の東西ラインと「久能山−富士山−日光東照宮」家康再生復活ライン、「日光(北極星)−江戸(北斗七星)」の南北ライン。
 因みに、織田家はもともと越前(福井県)織田荘の発祥で、剣神社の神官だったそうです。ですから織田家の嫡男信長も武将でありながら、神道奥義をも身に付けていた可能性が高く、安土選地にフル活用したと思います。秀吉家康も信長の神道奥義を身に付けて、迷いを捨てて天下を取りにいったと考えられます。
 例:気象衛星のない時代に、日の出日の入りで冬至と夏至を知り、田植えの時期、梅雨入り&明けなど生活に必要不可欠な現象を予想する。信長は入梅を待ち、今川軍が鉄砲を使えない状態で桶狭間を奇襲し、梅雨明け(自分が鉄砲隊が使える)を待って、長篠の戦いで徳川軍に加勢した(お目当ては津具金山?)。

 また後者については「天下布武」(七徳の武=天下人)は源頼朝の「天下草創」、「天下静謐」、「天下の義」などをベースに考案された。信長はイエズス会の操り人形だったという衝撃的な内容で、比叡山延暦寺焼き討ち、明国進出はイエズス会の指示、本能寺の変は傲慢になり言うことを聞かなくなった信長を光秀に襲わせ、秀吉へ首の挿げ替えをした事件というもので、古文書の解読(読みやすく現代語訳してあります!!)と信長政権の全体像(細川 藤孝、「死の商人」津田宋久のあやしい行動)の緻密な組み立て方は、内藤昌著「復元安土城」に匹敵する読み応えのある力作です。

 これらをまとめて安土選地の理由について考えてみました。

●安土占地理由

【実利的&物質的な理由】
-主要東山道と八風街道(伊勢方面)の交差点(∵すでに六角氏が観音寺城で近江支配に便利な街道を整備していた)。
 →瀬田の唐橋、(京都⇔安土間の)東山道の拡幅整備、下街道(佐和山-安土-京都バイパス)の整備だけで済んだ。
-(その日のうちに舟で【上洛】できる)【常楽】寺港の直轄支配。
-湖上航行中の信長を護衛するための(沖ノ島)水軍の存在。

【宗教的&精神的な理由】
−日本列島の中心(琵琶湖)の真ん中(大中湖、伊庭湖、弁天湖、西ノ湖)の中心【水平方向x軸の中心:x=0】
−「豊葦原の中つ国」そのものの風景。高天原と黄泉の国の中心【垂直方向y軸の中心:y=0】
  →【(x,y)=(0,0)】 ∴安土山頂=日本列島の中心地点(須弥山)。
−【南北ライン】
  「越前織田荘−気比神宮−愛発関−竹生島−安土−尾鷲」 
−【東西ライン】
  「生野銀山−柏原−貴船山−鞍馬山−安土−熱田神宮(勝幡城・那古野城・清洲城)−津具金山」
−【京都−岐阜ライン】
  「京都−安土−大垣−岐阜」
  →3直線の交点


-安土城跡を中心とした地図(Yahoo)
 http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.9.8.345&lon=136.8.31.448&sc=9&mode=map&type=scroll
 

 【南北ライン】
 「越前織田荘−気比神宮(けひじんぐう)−愛発関(あらちのせき)−竹生島(聖地)−安土−尾鷲(九鬼水軍)」
  ※越前織田荘=織田家発祥の地。
  ※勝幡城=信長誕生の地、那古野城=信長最初の城、清洲城=桶狭間の戦いの時の居城。
  ※気比神宮=福井県敦賀市にある日本海航路・北陸道の総鎮守。大鳥居は春日大社と厳島神社とで三大鳥居。
  ※愛発関=越前と近江の国境の北国街道上の関所。不破関(岐阜県)と鈴鹿関(三重県)とで三大関所。
  ※尾鷲=九鬼水軍の本拠地。伊勢長島の一向一揆を海上から攻撃して鎮め、鉄甲船を作り堺湾で毛利水軍を撃破。

 【東西ライン】
  「生野銀山−丹波柏原−貴船山−鞍馬山−安土−熱田神宮(勝幡城・清洲城)−津具金山」
  ※生野銀山=信長・秀吉・家康が直轄地とした兵庫県の銀山http://www.ikuno-ginzan.co.jp/rekishi.html    
  ※丹波柏原(かいばら)藩=織田信雄の子孫が江戸時代1695(元禄8)年に封じられた。兵庫県丹波市柏原。
  ※貴船山(神社)=古来から神聖な信仰の山 「丑の刻祭りと貴船神社」http://www.kibune.or.jp/jinja/tayori/12.html
  ※鞍馬山(寺)=真北(毘沙門天)に位置し京都を守る天狗(=山の精霊)の最高位山。山伏の山岳信仰の聖地。
           源頼朝の異母弟、源義経が修行。貴船鞍馬=京都の奥座敷
  ※熱田神宮=桶狭間の合戦の戦況祈願→戦勝のお礼に築地(信長)塀を寄進。三種の神器のうち草薙の剣を祀る。
  ※勝幡城=信長の生誕地。那古野城=信長初城主。清洲城=天下取り開始の城(桶狭間勝利時の居城)。
  ※津具金山=「信玄坑」。戦国最強を謳われた武田騎馬隊の軍資金。長篠の合戦(1573)後、信長直轄地に。

●天主台の意味     
 
【外部七角形】→七徳の武&北斗七星

 ※天下布武の「武」は武力行使そのものではなく、「七徳の武」で、「武力行使の七つの目的(=禁暴、治兵、保大、定功、安民、和衆、豊財)を持った者が天下を治めるに相応しい(春秋左氏伝)」という意味だそうです。
 −「五徳の冠者」=後鳥羽院の時代、「平家物語」の作者とされる信濃前司行長が白楽天の「新楽府」の詩文につき御前で討論する当番に召し出された際、七徳の武を題材に作られた舞曲「七徳の舞」のうち、二つの徳が何であったかをド忘れしてしまい、「五徳の冠者」と不名誉なニックネームを付けられ、学識が優れていることに名声があった行長は憂いのあまり学問を捨てて遁世した(吉田兼好の随筆「徒然草」第226段)。
  →信長は「五徳の冠者」にならないように天主台を七角形にしてそこに住んだと思います。
  →2階(三重目)の空中舞台は「幸若舞(敦盛)」に加え、正統な天下人になるための「七徳の舞」を舞うためであったかもしれません。

 ※北斗七星は天帝(北極星)の乗り物で、真北にある琵琶湖の聖地、竹生島を北極星に見立てる。
 −昼は熱田神宮(勝幡城)から東西ラインに沿って天照大神(太陽)、夜は竹生島(越前織田荘)から南北ラインに沿って天帝(北極星)を迎えて一心同体→常に天の主となり、24時間戦える仕掛け(天主閣)を作る。
 −ひょっとすると夜は天帝への目印として、5階八角堂に灯りを灯していたかもしれません。夕方から夜にかけての湖上交通の安全確保も兼ねるので一石二鳥です(∵近江領民に新領主織田信長の威光を見せつける)。


【石倉六角形】→亀の甲羅&六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天道)

 ※古代インドの宇宙観では【蛇→亀→三頭の象→大地→九山八海&須弥山】で5点セットですから、「蛇」石を地下に埋設し(もしくは砕いて天主台の石垣に使用?→山頂引き上げ作業は城下と漁農村の連体帯を高めるイベント)、平行四辺形の3隅(南西を除く)を切って「三頭の象」(→七徳の武と北斗七星が出現)、六角形の石倉で「亀」を表象して「大地」を作り、その上に「須弥山(天主閣)」を建てる。天主台を横から見るとこの5点セットが下から上に順番どおり並びますhttp://www.avenue.co.jp/~pdfland/12_kumi.html
 ※信長は第六天魔王を自称しました。第六天とは、六道の最高道、天道のうちの欲界六欲天の最高位にある天で、この天に生まれたものは、他人の楽しみを、自由に自らのものとすることができるそうです。信長は全国の茶器の名器を収集していたということでそのものずばりといえます。
 また石垣礎石群の南北軸は、磁北に対して東に6°10′ずれていますが、日本付近では磁北と真北が5°〜7°ずれるので、ほぼ正確に真北を指しています。また石倉南北面は東西軸に対して微妙に南東に傾いていますが、石倉をより正確に熱田神宮の方角に向けようとしたとすると、穴太衆の石積み技術は正確無比ではないでしょうか。


タイトルGoogleMap
記事No: 381 [関連記事]
投稿日: 2007/10/02(Tue) 06:36
投稿者大陸進出

 Google Mapで安土城の占地理由を考えてみました!!
あくまで仮説ですので、新着情報が判明次第、どんどん変更していこうと思います(^^)
ちなみに、早速貴船山と鞍馬山が東西ラインから外れてしまいましたし、3直線の中心が大中湖に来てしまいました!(^^)
ホームページにも取り込めるので、淳也さんも作ってみてはいかがでしょうか?(超簡単です!)

安土城の占地理由−信長はなぜ安土を選んだか?
http://maps.google.co.jp/maps/ms?oe=UTF-8&hl=ja&ie=UTF8&msa=0&msid=107343964999207213240.00043b688aa34b8e7486f&om=1&ll=35.07946,136.126099&spn=1.99134,3.411255&z=8


タイトル魅せるための城
記事No: 384 [関連記事]
投稿日: 2007/10/06(Sat) 18:36
投稿者大陸進出

Q.信長は安土城を戦うための城ではなく、見せるための城として築城したと言われていますが、来るべき上杉・毛利・本願寺の三国同盟(=第二次信長包囲網by足利義昭)との合戦に備えて蓄財しておかなければならない時期に、なぜ大散財して見せるための城を築いたのか?いまいちピンと来ません。そこで今日は納得できる理由を考えてみました。キーワードは戦国最強、武田騎馬隊の軍資金(隠し金山)です。
 
 世界遺産インドのタージマハルには合計28種類もの宝石がふんだんに使われ、大理石(ラジャスターン地方)、碧玉(パンジャーブ地方)などムガール帝国領内はもちろん、翡翠(中国)、トルコ石(チベット)、ラピス・ラズリ(アフガニスタン)、サファイア(スリランカ)、カーネリアン(紅玉髄)(アラビア)、インド国内で産出しない貴重な宝石を多用することで、圧倒的な財力はもちろん、皇帝シャー・ジャハーンの威光や親交がそれらの国々(の皇帝や王族達)にも及んでいることを、反皇帝派の諸侯に見せつけ、謀反や裏切りを未然に防ぐ狙いもあったのではないかと言われています。
 
 信長も生野銀山(兵庫県朝来市)はもちろん、長篠の合戦(1575)後、津具金山(愛知県北設楽郡)など武田家の隠し金山の獲得を待って安土築城を開始(1576)したからこそ、安土城天主や御幸御殿に金銀をふんだんに用いることができたのです。 また戦国時代の日本では金の産出量が少なく(銅銭ですら輸入「永楽通宝」に依存)、本格的に産出され大判・小判として流通するのは江戸幕府が佐渡や伊豆の金山を発掘してからということなので、安土築城時の黄金は超高額なレアモノだったのです。しかも津具金山は長篠の合戦での加勢に対する徳川家康からの御礼の献上地(棚から牡丹餅)で、信長自身が散財したというより、武田家から奪い取った戦利品を自由に使ったというのが正解です(=第六天魔王)。

津具金山(設楽町教育委員会)
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/tou062.htm

A. 安土城に当時入手困難で超高価な金銀を多用することで、朝廷や足利義昭を奉じる毛利元就や上杉謙信、石山本願寺に対して、「見よ、生野銀山はもとより、うぬらが頼りにしておった武田家秘蔵の津具金山もすでにわしのものじゃ!もはや武田の騎馬隊を蝶略してわしを背後から挟み撃ちにすることなど出来ぬわっ!」と宣言でき、(第2次信長包囲網を画策中の将軍義昭の信長追討&室町幕府再興要請に応じる可能性が高い)親足利・反織田の他大名や宗教勢力、武装勢力をけん制し、信長包囲網の足並みを乱せるのが確実だったから。また津具金山が戦利品であったため、信長自身の大散財とは言えないから。

 また訪問客に城だけでなく、黄金一万枚を見せつけることは、信長にとって目の上のたんこぶだった戦国最強の武田騎馬軍が近いうちに足元から崩壊することを予感させる効果があったと思います。
 特に当時貴重だった黄金の価値を誰よりも肌でよく知る武器商人、津田宗久に自ら案内して見せれば、その圧倒的な黄金(使用量)に驚愕した宗久自身が、石山本願寺のお膝元である堺の町(堺商人のネットワーク→全国津々浦々)に直接「織田軍の圧倒的大勝利!」という噂を広めてくれるのは確実です(顕如ピンチ!)。
 テレビも電話もインターネットもなく、明日のわが身をも知れぬ戦国時代には、あらかじめ情報戦を仕掛けて動揺を与えることが、敵の部下を寝返らせるのに必要不可欠です。
 また今まで見たこともないような「至る所に金が用いられ、内外ともに驚くべき建築技術をもって建てられていた(by宣教師)」優雅で豪華絢爛な天主閣や天皇専用の御幸御殿は、天下統一に邁進する織田家家臣や兵士の士気を大いに高める効果を計算に入れていたことは間違いありません。
 工事中の信長(館ひろし)が何かに憑り付かれたかのように、黒漆と金具で装飾され、花鳥尽くしにされる前の組みあがったばかりの天井格子を見上げて「この天主さえ完成すれば、朝廷はもとより上杉も毛利も本願寺の坊主どももわしにひれ伏すわっ!」と叫んだ理由もこれで納得です。
 また上杉謙信(Gackt)が春日山城の厠で死に(T_T)、伝説の鉄砲使い雑賀衆の加勢により10年も持ち耐えた石山本願寺がついに降伏して顕如が退去し、武田家を滅亡させて、安土築城目的であった関東と畿内の三大勢力の鎮圧に成功した後で、富士山見物中に「お狂いなされ」家臣や兵士を楽しませたり、徳川家康や穴山梅雪を安土城に招き、教養のある明智光秀に直接接待役を命じ、自ら膳を運び座敷の真ん中に座って給仕してもてなしたり(→逆効果。家康も梅雪も信長の給仕に恐縮してしまい、折角のご馳走の味がよく判らなかったそうです(^^))したのは、(この城に大散財した甲斐があったわ!わしは神に選ばれし天才じゃ!)という自分の決定の正しさと天下統一の達成間近の予感に酔いしれていたからだと思います。
 こうして築城目的をすべて達成した後、初めて安土城を出発し、諸悪の根源である将軍義昭を奉じる毛利、村上水軍、長曽加部討伐に出陣するのは自然な流れです(今度こそ義昭めの息の根を止めてくれるわっ!!)。しかしこれが命取りに…残念です。
 
 ここまで判ってくると、信長が魅せるための(安土)城に惜しげもなく金銀を多用できた理由が判り、その目的だと六角氏が街道筋や楽市楽座などインフラを整備しておいてくれた観音寺城では標高が高すぎるということが理解できます(∵高すぎて折角の金銀御殿が雲や濃霧に隠れてしまう)。安土山は高からず低からず、仰ぎ見るのに丁度いい高さで、湖側から見ると深緑色の観音寺山が天然の屏風となって黄金に輝く色彩豊かな天主閣を鮮やかに引き立ててくれ、信長が求めるすべての必要条件を満たしていたのです。
 
 以上、信長の居城とその意義や目的をまとめると以下のようになります。

 清洲城=尾張制圧の拠点(vs今川・松平)
 小牧城=美濃攻略の拠点(vs斎藤)
 岐阜城=近江攻略の拠点(vs六角・浅井朝倉・比叡山延暦寺)
 安土城=京都・畿内・東国制圧の拠点
 (vs朝廷・石山本願寺・高野山金剛峯寺・北畠・伊勢長島一向衆・甲賀伊賀衆・雑賀根来衆・上杉・武田)
 大坂城=九州・中国・四国・瀬戸内海制圧の拠点
  →石山本願寺跡に豊臣秀吉が1583年築城開始→1587年九州、1590年小田原を平定=天下統一の完成。


P/S
 NHKBSハイビジョンで放送中の「功名が辻」再放送は月曜日、いよいよクライマックス「本能寺」です。
 信長(館ひろし)が白い寝間着の上に甲冑胴衣を着け、雑賀孫市並みの百発百中の正確な射撃で反撃する新しい演出が見れます!!(^^)