淳也さんの東山殿常御所に関する論考を興味深く読ませていただきました. しかし私の理解では, 淳也さんの東山殿常御所に関する論考には誤解があると思います.
■誤解その1■
私の理解では,宮上復元案は,東山殿常御所ではなくて, 足利将軍邸の常御所が6間×7間だったという伝承に基づいているはずです.
この伝承の面積は東山殿常御所の各部屋の面積の合計と同じであり, この伝承はおそらく正しいと私は思います.
ただし宮上氏が主張するように, 安土城天主一階の信長居住部分がこの伝承に基づいているとしても, 宮上復元案はその復元に成功していないと思います.
まず淳也さんの指摘どおり, 宮上復元案は6間×7間になっていません(笑).
また現在の京都御所の天皇の常御所でも, 建物の中央にある外光の入らない部屋は寝室になっていることを考えると, 安土城天主一階の信長居住部分が常御所を想定して設計されているのであれば, 6間×7間部分の中央の部屋は寝室のはずですが, 宮上復元案では寝室ではなくただの落間です.
さらに宮上案の中央の落間は隣の8畳の部屋と一緒にして12畳とするのが自然であり, 落間と8畳に分割するのは無理があると思います.
一階の信長居住部分について, 私の復元案は宮上案そのままでしたから, 改善しなければなりません.
■誤解その2■
>一階の納戸の一つを1類本は「次十七てう敷」と記すが、 >2-3類本は「次十てう敷」と記す。 >十七畳という座敷はほとんどあり得ないし、 >また私が復元図を作成してみたところでも、 >十畳でないとプランが納らないから(次號第三図・一階17参照)、 >この場合に関しては、現存する1類本写本の方の誤写と認められる。 >原本の「十てう敷」の「て」を「七」に読み間違えた結果であろう。
宮上氏は1類本と2-3類本のどちらが正しいのかを問題にしているのですから, それぞれの復元図を作成して, うまくいかない方を誤写と考えるのは合理的な推論ではないでしょうか.
■誤解その3■
>「御飾書」には四畳の書院の北西の隅には違い棚が置かれていて、 >その上に横にながい水墨画がかけられていることになっています。 >川上説の書院北西の隅をみると、 >西側は昼の御座所から書院へ入る入口で絵はかけられず、 >北側は焚き火の間との境の戸になっている、 >ということは棚の上にかけられた横に長い墨絵は、 >部屋の境の戸の部分にかけられている事になり、 >絵画の展示のしかたとしてはすこし違和感があります。 >というか一間幅の開き戸の場合、 >向って右側の戸が手前にはめられるので、 >この部分に絵をかけると戸の開け閉てができなくなります。 >また「御飾書」では書院の脇に二幅の掛軸がかけられている事になっているのですが、 >戸に掛軸をかけるというのは先ほどと同じく違和感があるうえに、 >この間取りで二幅の掛軸をかけるとすると、 >北側にかけた場合、書院から焚き火の間へ行くことが出来なくなり、 >南側にかけた場合、舞良戸が開けられなくなってしまいます。
川上氏は,建具の前方ではなく, 小壁(建具の上の長押と天井の間の壁) に絵画が飾られていたと考えているはずです.
現代の和室では, 絵画は床の間に飾るものであり, 小壁に絵画を飾ることは違和感がありますが, 義政の時代では普通であり, 京都の寺院の古い建物では, 現在でも小壁に絵画を飾っています.
小壁に絵画を飾るのであれば, その下の建具を開閉できますから, 川上説におかしな点はないと思います.
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