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タイトル信長生年月日
記事No: 185 [関連記事]
投稿日: 2004/12/07(Tue) 17:05
投稿者inoue tsutomu
URLhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou

太田牛一は織田信長の生年月日を書いていないという指摘は面白く、肝心なことが抜けているようでは太田牛一は信用できないではないかという問いかけがまず必要でしょう。これは確実に〈信長公記〉に書いてあると思います。上記URA、第10稿で考察しておきました。


タイトルRe: 信長生年月日
記事No: 186 [関連記事]
投稿日: 2004/12/10(Fri) 00:14
投稿者淳也

inoue tsutomuさん、はじめまして、

> 肝心なことが抜けているようでは太田牛一は信用できないではないかという問いかけがまず必要でしょう。

虚偽の事項が書いてある資料は、信用できませんが、
肝心なことが抜けていても、資料の信憑性が低いとは限りません、

太田牛一が、正確な織田信長の生年月日を知らなかったと仮定すれば、
信長の伝記なのに、肝心なこと(信長の生年月日)が抜けているのは、
歴史資料を編纂する姿勢としては、良心的だと言えます。

その点から考えれば、太田牛一は比較的信用できる伝記作家であると思いますが・・・。


タイトルRe: 信長生年月日
記事No: 188 [関連記事]
投稿日: 2005/02/20(Sun) 20:26
投稿者inoue
URLhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou

こんいちは。ご無沙汰しています。
 太田牛一が織田信長の生年月日を知っていたかどうかは両者の密着度により今太田牛一が桶狭間の戦いに従軍していたかどうかさえ論じられていないのですから、案外二人を社長・課長ぐらいの疎遠な関係とみている人も多いと思います。信長の生年月日も知らないかもしれないといわれるのも仕方がないことと思います。ここで両者の関係を語るのは長い話になりますので、これは別として、それなら少し見方を変えて太田牛一が自分の生年月日を書くほど山っ気がある人だったら織田信長の生年月日ぐらいは書くだろうとみるのもよいかもしれません。これをURLで
 「大永戌春(ルビ=六年、1526年)二十五日」
ではないかとみています。書き手の中でも太田和泉守牛一ほど自己について語った人物はいないかと思われますのでこういえるのですが、この「春」というのも太田牛一とその関係を匂わせる語と思います。


タイトルRe: 信長生年月日
記事No: 189 [関連記事]
投稿日: 2005/02/20(Sun) 21:43
投稿者inoue
URLhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou

188の記事のつづきです。
 桶狭間の戦いに信長公記の著者(太田牛一)が参戦しているかどうかは記事の解釈に大きな影響を与えることはいうまでもありません。これが議論にもならないのは桶狭間の記事に「太田又助」という表記が見当たらないということだと思います。小瀬甫庵は桶狭間の記事で戦死者について
「首共の仮名実名(ルビ=けみょうじつみょう)お尋ねありけるに」
と書いています。要は名前が一筋縄ではいかないことを示していて、この戦いの人名は仮名であるといっていそうです。似ても似つかぬ名前が平気で使われるのです。聖徳太子は厩戸皇子、小野妹子は蘇因、阿倍仲麻呂は朝衡、空海は弘法、明智十兵衛は惟任日向守、利休は宗易、岩見重太郎は薄田隼人、坂本竜馬は才谷梅太郎、釈超空は折口信夫などです。
桶狭間でも発言した人物、森三左衛門尉、簗田出羽守、岩室長門守は太田和泉といえるはずです。名前の比定を根気よくやらねば実態が掴めません。安土城に関していえば、天守閣造営奉行木村二郎左衛門がよくわからないのではあとの話が続きません。太田和泉は狩野又九郎という名も使っていると思いますがこれは狩野派の絵師でもあったことを示すものでしょう。太田和泉の表記で天守閣と狩野永徳がつながったりします。


タイトル信長記の天主記事の信頼性について
記事No: 195 [関連記事]
投稿日: 2005/03/21(Mon) 01:22
投稿者inoue
URLhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou

こんにちは。「またか」ということになりますが安土城創建に関わった「木村二郎左衛門」について語るのは本題から外れることではないと思います。信長公記の「木村次郎左衛門」(安土城のところだけは「二郎左衛門」)は当代記では「森次郎左衛門」もあり「森」は「木林」ですから「木村」に通ずる、つまり同一人といえるように人名表記の工夫がされたとみるべきものです。こういう操作などにより、「森」から「森乱丸」「森勝蔵」、「木村」から「木村重茲」「木村重成」、また「又助」から「木村又蔵」「後藤又兵衛」などが派生し、その他チリ・アクタとして浮遊する断片情報が糾合されて「木村次郎左衛門」は「太田和泉守」の断面を表わす活動名と取れます。要は太田和泉守牛一というのはペンネームで、著者の自画像が他の名前で入っていることはその渦中にいた者が記録を残すという不文律が現れたものであり文献の信頼性を高める第一歩となるもので、そういう意味でこの安土城で出た「木村」はきわめて重要な名前であるといえるのです。本能寺のあと安土城を預かり明智光秀に城を明け渡したのも木村次郎左衛門です。しかしそうだとしても、そんなことは安土の天守の構造のことと話が違いすぎるということになるでしょうが総奉行が文献を書いたということの再認識がまず必要だと思います。そうでないと少しわかりにくいところが出てきたら、人に聞いたから聞き間違いもある、専門家でないから間違いやすい、おかしいところは補正して読んでやらねばならぬという気持ちが出てきて、自分の必要なところだけ拾い読みしてしまうようなことになりかねません。この文献への信頼性があるかないかは根本的に重要なことなのではじめに確認しておかなければならないところです。天主指図の「池上右平」の「池上」はチャンと信長公記に「大工棟梁、池上五郎右衛門」として出ているわけで、併記されている「村井民部」は村井長門守とされている人物です。「長門守」というのは講談の木村長門守重成、桶狭間で情況を語った岩室長門守のように太田牛一に絡んだ名前です。また五郎右衛門というのは五郎左衛門でもありますから、「明智」の使用を避けるために作られた「惟任」と同じく「太田」を避けるためにでてきた「惟住」の「五郎左衛門」と表記が通ずるものがあるのです。つまりこの池上は「五郎」かどうかわからない、語呂あわせの感じがするものです。
安土城天主を主要文献(信長公記・甫庵信長記)で見る限り意味不明の部分、読み方に議論が分かれているところがあり、これをまずクリアしないと図面だけで走ってしまうのは危いと思います。つまり池上も太田牛一の意思を汲んでいるだろうから、図面といっても正体をすぐ見破られないように、わかりにくくされているのは文章と同じことだからです。
 要は基本的な疑問として、安土の城のことなどについてわかりにくく述べる必要がないではないか、ということをいわれると思われますが、全体的に、体系的な操作がなされているのですから、もっとも皆が知りたい、著者もこだわりがあるところで、それを抜いてしまうと操作している意味合いが希薄となって、まあ全部無視されてしまいます。桶狭間とか、安土城とか、本能寺などの節所のところでそれが出されなければ操作の一貫性が崩れますし意味が無くなってしまいます。またその注目場面で頑張らねばならないから難解な操作がされるということになります。したがって安土城のところも手をぬいて読んではいけないといえると思います。まず甫庵はどういっているか・・・


タイトル甫庵の信長記の天主記事
記事No: 196 [関連記事]
投稿日: 2005/03/21(Mon) 10:37
投稿者inoue
URLhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou

NO195の続きです。〈甫庵信長記〉では、
 『安土の殿守は、二重石垣に高さ十二間、上の広さ南北廿間、東西十七 間、石垣の内を蔵に用い、其れより上七重の殿守なり。』
となっています。これだけしかないということは誰でもイメージできるように「簡単にいえば」式でまとめ上げたといえると思います。二重ということは二層と解してよく今日でいえば二階があったということだと思います。つまり天主の下を支える石積みの部分は高さ十二間あって中は二階になっていて、この二階の一階は「蔵」として使われていました。
 安土天主の総を知るには、合計十二間が出ているから、この一階の高さは知る必要はありませんが、それは必要十分に述べようという意思があったとすると手を抜けないはずのものです。これを知ろうとすると〈信長公記〉の意味不明の記述にでくわすわけですが、一応ここでは結論として、十二間マイナス八間=四間がこの物置のような部分の高さといえると思います。
 「上」の方の広さは二十間×十七間といますが、これはどこの部分かといえば二重石垣の二階部分の床面積(一重の蔵部分の天井の広さにほぼ同じ)のことをいっているはずです。つまり天主の石積み部分の上の方の体積は20×17×8=の立方体となると思います。なぜここに巨大な空間を設けたのかということは一つは五重で日本一の高さと思われる坂本城を越える高さをねらう必要があったと思われます。労せずして石垣(石作り)のところで点数を稼いだといえると思います。技術的にそういう空間を石でつくるのは可能かという点は古代でももう石室というものがあり空間を石で作っていたし石を近くの山から切り出してきているのですから可能と思いますが、まあ一歩引いて完全空間でなくてもよいからそう問題にするにあたらないといえると思います。
 ここの巨大空間を二重目と呼ぶのかということに関し〈信長公記〉の記事は、肯定するような、否定するような、晦渋をきわめた書き方がしてあります。ここのところ上の方の空間を二重目の0・5といった捉え方をしているのでそうなると思います。上記の8がどこから出てくる数字かということに関するものです。なお甫庵は殿守と書いていますので「守」を使っています。「天主」は太田牛一だけが使っていると思われるので「天主指図」との連携が感じられると思います。また〈信長公記〉の天主記事の前に「まなべ七五三兵衛」(「まなべ」は間鍋主馬兵衛が本名)を出してきたのは、城の七五三への著者のこだわりを示しており自分が関わった坂本城のことは確実に意識されていたと思われます。
〈信長公記〉はどういっているか・・・


タイトル〈信長公記〉の天主記事(1)
記事No: 198 [関連記事]
投稿日: 2005/03/22(Tue) 14:41
投稿者inoue
URLhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/

NO196の続きです。まず記事の全体の枠組みのことですが、おかしいところがすぐわかります。〈信長公記〉では、
   『   安土山御天主の次第
      石くらの高さ十二間余なり。
    一、石くらの内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。
    二重石くらの上、広さ・・・・高さ・・・柱数・・・・・
        (その階の様子)
    三重め、(その階の様子)
    四重め、(その階の様子)
    五重め、(その階の様子)
    六重め、(その階の様子)
    上七重め、(その階の様子)
    上一重のかなく(金工?)は後藤平四郎・・・・
    二重めより京のたい阿弥かなくなり。・・・・御大工岡部又右衛    門・・・・・・・・
    御普請奉行、木村二郎左衛門。
      以上。』
 となっています。おかしいというのは、まず
@はじめ一段目の「一、」に対する「二、」がない。どこにあるのか、
A二段目の出だしには「三重め、」以降の「何重め」というような表記がない。ここは「二重め」となぜ書けないのか、
という点です。これに付随して
Bはじめ一段目の「是より七重なり。」というのは一段目の石くらの下の階の部分は含むのかということが出てきます。当然合計七つあるから七重の一重目としてカウントされるということになるでしょう。大抵は直訳して、意味は探らずに終わっているはずです、しかし「これより」もしくは「これ(ここ)から」「立ち入り禁止」という場合「これより」先のことをいっているわけで「これ」は含まれないはずです。「是より七重なり。」という語句が一段目の終わりに付け加えられているという形ですからそうなります。そうとなれば二重目と書けないことになりますが、そういうことも含めて二段目の部分で何かいいたいことがある、ここが安土城の他のところとちがうところだといっていると感じられるわけです。結論的に先にいえば次のように補正されます。著者は読者に完成してもらうべく不完全表記をするのが一つの手法となつています。つまり□のような欠字がままあるのもそうです。国語の神様俳聖芭蕉にもそういうのがたくさんあります。
  一、石くらの内を一重土蔵に用い、是より七重なり。
  二、(七重のうちわけ)
    一重め、石くらの下の階の天井から石くらの上まで、
    石くらの上、広さ・・・高さ・・・・・・の部分。
    二重め、(その階の様子)
    三重め、(その階の様子)
    四重め、(その階の様子)
          以下同じ

となります。つまり二段目のはじめ「二重石くらの上」という「二重」は
  「二、」と「二重め」に分解されるもので
    二の一重め、は石くらの一部
      二重め、からは部屋などのある生活空間ということでその
      様子を描いたということになるかと思います。
なぜ石くらの一重部分をはずすのかということは「土蔵に用い」となっているように安土山の土に石を埋めこんだというようなものだったので努力工夫の内に入らないから外したと思われます。これだけでもまだおかしい
ところがあります。七重目の「上」というような。・・・・・
   


タイトル〈信長公記〉の天主記事(2)
記事No: 199 [関連記事]
投稿日: 2005/03/22(Tue) 18:56
投稿者inoue
URLhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/

NO198の続きです。補正記事再掲、七重め、のところに重要な操作がしてあります。
     『   安土山御天主の次第
      一、石くらの内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。
      二、(七重のうちわけ)
        石くらの上、・・・・・・・・・・・・・・・
        二重め、(その階の様子)
        三重め、(その階の様子)
        四重め、(その階の様子)
        五重め、(その階の様子)
        六重め、(その階の様子)
        上七重め、(その階の様子)
        ●上一重のかなく(金工?)は後藤平四郎・・・・
        ■二重めより京のたい阿弥かなくなり。・・・・御大工
 岡部又右衛門・・・・・・・・
        御普請奉行、木村二郎左衛門。
          以上。』
 となっています。おかしいのは、
 @「七重め、」に「上」が付いていることです。誰が見てもおかしいと思います。まあ最上階というのを表わす接頭語だろうとか間違いかもしれないということで済ませてしまいそうです。しかしこの「上」は、●の「上」で受けられているから、間違いとかうのではない、意図があるかもしれないということになります。そうなれば、ここで「一重」に「上」と「下」があるのか、ということで探さなければならないわけです。
Aすぐあとの■が何とも皮肉で「二重め、」から上は、たい阿弥がかなくですから、●は七重めのことでなく「一重め」のことをいっているかもしれないと気付きます。つまり、この上一重は「一重め」の「上」を指している、「一重目」の上が存在している、一重目には下があることは、たしかに甫庵もいっていました。つまり石くら部分の空間の存在は確実にあるということをここでいったようです。
Bもう一つこの石の中の生活空間でなさそうなところに後藤が金細工をしました。これもおかしな話しです。つまりこの空間は何かに利用されたわけです。二重め、の(その階の様子)で座敷納戸など羅列した最後に
  『此下に金燈炉をかせられたり』
というのがあります。今までの理解ではこの下は土蔵しかないのでそんなことは出来ません。またこの金燈炉「をかせられたり」というのを「置かせられたり」と取るとかなり大きいかもしれない、金燈炉「を下せられたり」となると吊り下げのイメージがあるから床下高さがいるわけです。

 この〈信長公記〉の記事全般において移動させて読まねばならないということも感じられるところです。●■などの一部分は、二重目と三重目の間にもっていって読むと文意がよくわかるというようなことです。
・・・・
   


タイトル〈信長公記〉の天主記事(3)
記事No: 200 [関連記事]
投稿日: 2005/03/26(Sat) 13:56
投稿者inoue
URLhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/

 NO199の続きです。いま、この長い記事の全体の構成の話をしていますが、最後に人的な部分があります。もちろんここも重要ですがここでもおかしいところがあるのはすぐわかります。補正記事再掲、ここでも重要な操作がしてあります。
      『   安土山御天主の次第
      一、石くらの内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。
      二、(七重のうちわけ)
        石くらの上、・・・・・・・・・・・・・・・・・
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         上七重め、(その階の様子)
         上一重のかなく(金工?)は後藤平四郎・・・・
         二重めより京のたい阿弥かなくなり。・・・・
         ●御大工 岡部又右衛門・・・・・・・・・・・
         御普請奉行、木村二郎左衛門。
            以上。』
 となっています。単に名前があがっているだけの事実報告のようにみえますが大変な準備の結果がここに出てきています。この安土城の記事は考えに考えて書かれたということが感得できるところです。

(1)一見して大工棟梁の「岡部又右衛門」についておかしいと感じないようではどうにもなりません。すなわち大工棟梁は「池上五郎右衛門」であってしかるべきであり、そうでなければ「天主指図」の文書が実際安土の城のものか、という基本的な疑問を抱いたまま論議することになってしまいます。いま天主の構造云々の話の前の初歩的な段階のことさえクリアされていません。

(2)結論的にいえば「岡部又右衛門」は「池上五郎右衛門」その人のことです。今まで似ても似つかない名前で同一人物であるという例は多いということを言ってきている、それを「うそだろう、そんなわかりにくいことはするはずがない」といっていては、こういうところに撥ね返ってくるわけです。もし●のところが「池上五郎右衛門」とか「池上右平」とでもなっていれば、もっと早く城の解明が進んだと思われますので同一人であるという証明はやっておかないといけないものです。テキスト(角川文庫信長公記)によれば「岡部又右衛門」には解説がないのです。要はわからない、流石の江戸の学者も考証できていないようです。一見してこれは実態のない名前というのがわかるからほっといてよいだろうとみたのでしょう。

(3)「太田孫右衛門」というのは太田牛一のことですが、「孫兵衛」というのも太田牛一で使われるものです。つまり「右衛門」というのは「
兵衛」にもなるわけで、「又右衛門」といのは「又兵衛」で、金工の「後藤平四郎」の「後藤」が出てきていますから、後藤又兵衛というイメージが浮かび上がってきて、それは、木村二郎左衛門に繋げるためにもってきたというのが直感的にわかります。寛政の大学者、木村兼葭堂は、自分は後藤又兵衛と木村重成の子孫だと広言しています。木村だから重成の子孫だというのはわかりますが、後藤を出してくるのはおかしい理屈です。、先祖が途中で後藤姓から木村姓に変えたのだという話ですが、江戸期では後藤・木村ワンセットで理解されているといえます。「又右衛門」はそういうことですが「岡部」はどこからきたのかいうことにも触れねばなりませんがこれは後のことにして結論では、はじめの一文はとりあえず
  『・・・御大工●□□□□□・・・御普請奉行木村二郎左衛門。』
 というように白紙に戻してあと〈甫庵信長記〉などを参考にして●を埋めて下さいと提示したとみられるものです。

(4)「池上五郎右衛門」の登場は〈信長公記〉では一回だけです。元亀三年、京都の「信長公御座所を造るにあたって
 『御奉行、村井民部・嶋田所助、御大工棟梁池上五郎右衛門仰せ付けら  れ候キ。』
 です。〈武功夜話〉の主人公、前野長康さえ一回だけですから少ないというの重要人物でないということにはなりませんが、重要人物でないと取られやすいことは事実でしょう。事績の大きさからいって隠されているという印象をうけるのは否めません。

(5)一方「岡部又右衛門」は〈信長公記〉で四回、あの「太田又助」でさえ三回だけですから多いといえます。〈甫庵信長記〉では登場は二回ですが広く教養層に読まれたこの書物では「池上五郎右衛門」は出ていません。これも重要な点で太田牛一が睨まれているという立場にあれば、要所での協力者「池上」を保護せねばならないということが当然出てきます。今日民主主義といっても例えばメールは仮名でされている、その形を残しておかねばいいたいこともいえなくなるからということでしょう。ましてこの時代のことで、政権の消長や、政治的なできごとが出てくるのですから登場人物も含めて実名ストレートでは書物などは出したり、残したりすることはできません。・・・・・・    


タイトル〈信長公記〉の天主記事(4)
記事No: 202 [関連記事]
投稿日: 2005/03/31(Thu) 09:17
投稿者inoue

>  NO200の続きです。岡部(辺)又右衛門は、その姓の「岡部」をみるだけで「五郎」が連想できるようになっています。あの桶狭間の戦い〈信長公記〉の記事で今川方なのに四回も登場して、しかも記事の終わりを飾っているのが「岡部五郎兵衛」です(本当の呼び名は岡辺丹波守長範のようだが丹波守というのも怪しい。)。
 「岡部又右衛門」から「岡部五郎兵衛」や「岡辺五郎右衛門」が出てきて、池上の「五郎右衛門」につなげています。この「五郎合わせ」だけでなく、これを導き出す布石は万全です。・・・・・・・
 大工の棟梁が池上に変わるというのに加えて行き着くところ太田和泉守
が城を建造した最高責任者であったことがわかれば色んな意味でこれにこしたことはないわけです。ここではじめて「安土城の記事はその本人が書いたものだからしっかり読まねばならない」と感じてもらえると思ったののでしょう。太田牛一もそのように布石したといえます。
 結局この問題は最重要ごとの一つだから太田牛一自身が語っていて議論の余地がないのです。どこに書いているのか、虚を突いて「目次」のところでいっているのです。以下その文です。
  『(巻九)
    一、安土御普請の事
    二、二条殿御構(かまえ)御普請の事
      ・・・・・・・・
    五、西国より大船を催し木津浦船軍(ふないくさ)歴々討死の事      (安土山御天主の次第)
    六、●安土御普請首尾仕る事 』

 となっています。この●の部分は
  「安土の御普請始めから終わりまでやりました。」
というようになると思います。これはこうとしか読めないはずです。とくに「仕る」という「る」が入っているのでそう読みやすくなっています。しかし現実はそうはならない、権威筋のいうことでないと聞かれないということを知っていたようです。書記だ、書記だ、とみな聞かされているから、
  「安土の御普請の一部始終を(書き)仕る」
 という意味だといわれると、そうだ、そうかもしれない、学説が分かれるのは仕方がないとかいって、インパクトのない記事になり、そのままとされてしまいます。
 人物についての操作のことは天主構造の場にそぐわないのを承知で、一般歴史愛好家すら白けそうな木村又蔵や後藤又兵衛のことを辛抱して述べてきました。こういうのは述べる側の方がよほど辛抱がいることです。
 しかし要は木村・後藤のようなマイナー情報でも根拠をつけて(つまり表記のイタズラを追う)くりかえし説明がされていると、この●の部分が額面どおり読まれるようになります。まして木村世粛までが応援しているとなるともうそうときめてよいものです。・・・・・
 目次の効き目は大きく、二番の「二条殿」のところも読解のヒントを与えていると思います。・・・


タイトル 〈信長公記〉の天主記事(5)
記事No: 203 [関連記事]
投稿日: 2005/03/31(Thu) 12:35
投稿者inoue

NO202の続きです。目次再掲
  『巻九  一、安土御普請の事
       二、二条殿御構(かまえ)
         ・・・・・・・
       五、西国より大船を催し・・・歴々討死の事
         (安土山天主の次第)
       六、安土御普請首尾仕る事 』
 巻九は天正四年でこれで終わりです。一と六に安土が出てきて、六が流れを受けた感じだから、二、もそれに関係するかも知れないと見るのは合っていそうです。〈信長公記〉は日記風だから、桶狭間の記事まで安土城の大工棟梁のことに結びつけて考えるのはおかしいということになりますが関ケ原で小早川秀秋軍の突撃に参加しなかった松野を本能寺で出してくるという操作にみられるように関ケ原戦後著述している(手を加えている)からしかるべき人名などをあとから嵌め込むことが可能になります。
岡部は今川軍で最後まで踏みとどまった大将であり、今川氏真を見捨てず
徳川と戦って戦死したという松野にもみられる好意的なものもあるという一面がありますが(これも重要)あとからやるということは記述目的に照らした完璧な操作も可能となります。稀世の人物による人名・地名・語句・・・・で構成されたクロスワードパズルを解くことで読み取っていけばよいということですが、外向き全然そういうのを感じさせずまっとうな史書として通用しているというのです。この国は大変な著述を生んだものだと感じさせられます。
 この目次「二、」に対応する本文(二)の一節はきわめて短いもので

 『(二)二条殿御屋敷、幸(ルビ=さいわい)空間地(カタカナルビ=
  アキチ)にてこれあり。泉水・大庭眺望面白く思食(おぼしめ)さ
  せられ、御普請の様子条々村井長門守に仰せ聞けらる。』

 ここは三つ重要なところがあると思います。
@村井長門守が出てきますがこれはすぐ関連対象が想起されるものです。
いま安土城についての基礎資料は「村井安土日記」と「天主指図」となっているその一つで、何か語ろうとしていると取れるものです。
 また池上と関連した村井というものもあります。四年前の次の池上が
出てきた唯一の記事につながる村井です。
 『御奉行、村井民部・嶋田所助、御棟梁池上五郎右衛門仰せ付けられ
  候。』
 がありこの村井の地位があがって長門守となったと理解されているので同一人物です。簡単にいえばこの長門守は太田和泉守を表わしているととれます。この嶋田所助は「秀満」という名で、明智左馬助も「秀満」という名があり明智左馬助が顔をだしているというものです。つまり太田牛一
が村井日記と天主指図を安土城の基礎資料として残すようにするといったとも考えられるところです。
Aここで「空間」という語句を出してきたことが重要だと思います。もう始めのところ(二重石垣の上)でこの言葉を使いましたが根拠はここです。「空間」は「空」と「間」の二字ですが、二つ合わせて「アキ」と読ませていますの、「空」も「間」も「あき」と読めばよい、「間」という語が出れば、何間という長さもあるかもしれないが「空間」と読まねばならないところもるかもしれないといっていると思います。もちろん字引をみれば「間」だけで「空間」の意味があるので蛇足かもしれないがうっかりしやすいところです。この文は土地のアキチがあったから館でも建てるのだろうと読んでしまいますが空間つまり館が空いていたともとれるので迷いますが後者ではないかと思われます。
Bこの二つの文前者のものは池上が隠されていると思われます。四年前と同じ村井との組み合わせでこのときも大工棟梁は必要だから、池上と当然補充されると読むのも合っていると思います。前後二つの「仰せ」をみると四年前は池上を大工棟梁に任命したのは、奉行でなく信長公と取れます。前者の「仰せ聞く」というのも聞くのは村井からでなく池上ではないかと思われます。要は表現がおかしいわけです。つまりここは「村井長門守」「村井民部・嶋田所助は〈信長公記〉のつけたりで甫庵にも出ていないので操作した名と取れるところでやや飾りだけという感じがします。資料評価の問題につながるものですが、村井安土日記は池上の著述で、天主指図と村井日記はワンツウ、信長公記と甫庵信長記はワンツウで安土城を語ろうとしたのではないかと思われます。村井で有名な人物はのち加賀前田百万石第一の家老に村井又兵衛長頼という人物が出てこれも「又兵衛」なのでこの人の名をちょっと拝借したとも考えられます。

 目次でいえば(安土山天主の次第)という部分の位置もおかしいようです。・・・・・・・


タイトル〈信長公記〉の天主記事(6)
記事No: 209 [関連記事]
投稿日: 2005/04/04(Mon) 13:14
投稿者inoue

 NO203の続きです。
 これからは、敷かれた伏線のことは省いて、主要文献である信長公記・甫庵信長記によって安土城の構造はどう書かかれているか、に入りたいと思います。
 いま資料として
   @信長公記 A甫庵信長記 B村井安土日記 C天主指図
の四つがあります。@は参考程度になっていてAは無視されてBとCで
研究が進められて不完全資料で苦労しながらやているということになっています。
 一方今みてきたように太田和泉守が四つの資料を意識して作ってそれを残すことに成功した、四つは太田和泉守の指定した資料であってそれが残って参考にされるということになっているから奇跡的な流れのもとで研究されていることになります。
 しかしそれにしてはまとまらないではないか、そういう仕掛けになっていないのではないかと疑問が出されるかもしれません。
 これは頭に描かれた完全な安土天主の綜合説明書がそれぞれ特徴を持たせながら四分割されたという視点がなかったためお互いに補充をしながら読まず一つを別々に完全に読もうとしてきているからです。つまり四つの資料が共同作戦をとっているとみて一つをもう一つに嵌め込んで読まないからこうなっていると思います。
 たとえば天主六重め『八角四間あり。・・・・』があり構造を表わすものはこれしかありません。ニュートンプレス訳本では「四間」は四つの部屋と解されています。それにしては広さが書かれていない、とりあえず知りたいのは高さなので、これは高さだと思いますがこれだけでは四部屋の方が合っていそうです。これは『□□□八角□□三間□□□』というように空けて待っておく、ほかのものから補充するようになっていると思います。逆に一方の文献の判りにくいところは空けておきそれを常に意識しておれば必ず埋まってくると思います。
 また主要文献が軸なのにそれを重視してこなかったこともあると思います。
 ある程度読めているではないかという感じもするのは分割されながらそれだけ見てもある程度わかるように工夫されているからそうなる、つまりよく考えられて不完全になっているものを額面どおり読んだからそうなっている、文献がすぐれていたからそうなったといえるものです。
 嵌め込んで読むなどといっても実際しんき臭くてやりませんがやってみるともとの文書が再現されるのですから今まで見落としてきたことも浮かび上がってきます。甫庵信長記の既述の短い記述は無視してもいいのかどうか、信長公記に嵌め込んで読んだらどうなるか。・・・・二つ合体させたら安土城総論とでもしてよいようなものが出てきます。・・・・


タイトル〈信長公記〉の天主記事(7)
記事No: 210 [関連記事]
投稿日: 2005/04/04(Mon) 21:23
投稿者inoue

 NO209の続きです。

 はじめに〈甫庵信長記〉の記事です。

  『安土の殿守は、二重石垣に高さ十二間、上の広さ南北廿間、東西十  七間、石垣の内をくらに用い、其れより上七重の殿守なり。』

 大部の〈甫庵信長記〉も安土城を述べたくだりはこれだけです。うまくまとめた上げたといえますが簡単すぎて不親切という感じです。これに対する〈信長公記〉の記事は長いのですが〈甫庵〉が「七重の殿守なり。」
で終わっているからとりあえず、そこまでの記事を出してみます。

  『安土山御天主の次第
   石くらの高さ十二間余なり。
   一、石くらの内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。』

 現代の人は想像図などで予備知識がありますが何もない状態でこの二つでわからせようと試みたということができます。二つを作って嵌め込んで読んでもらおうとする記述作戦です。いま〈甫庵信長記〉が長いので、それに〈信長公記〉を嵌め込んでみます。( )内が〈信長公記〉です。

  『安土(山)の殿守(御天主)は、二重石垣(石くら)に高さ十二間
  (余)、上の広さ南北(北南)廿間、東西(西東)十七間、石垣の内  (石くらの内)を(一重、)(土)蔵に(御)用い、其れ(是れ)より
   上七重(七重=上なし)の殿守(はぶいている)なり。』

 となります。こうしてみるといいたいことが浮き出してきそうです。
(1)安土(山)
  〈甫庵〉の「安土」は城所在地の紹介のようなものですが〈公記〉に   より(山)に建てようといわれたことがわかります。これは「なん   と山の上ですよ」といっているようです。時代遅れで、困難さが伴   い、金もかかる、戦いとか政治的に活用するといったものではな    い、見晴らしがよいというのも条件のようだ、威容をほこるといっ   たものもあるでしょうが、庶民に対してなら南の方往還のはげしい   ところがよいはず・・・・となりますが、これは主観的だとかいっ   たことになりそうです。あとで目次の(安土山御天主の次第)の    位置などのことから戻って来たいと思いますが、(山)一言で建造   目的のすべてを語っていると思います。
(2)殿守(御天主)
  「殿守」を「御天主」といいかえています。「殿」を「天」といいか  えたのは「てん」と読ませたかった、またこちらが合っているという  ことを表明したものでしょうが「守」を「主」にかえたのは「御」と  いう尊敬語と無縁ではないと思います。「御」はあとでもう一回出て
  くるので著者が強調しているものです。つまり「殿」というのは太田  和泉守から見ての「殿」で「信長公」、「御天主」はゼウスのような  意味のものとして出してきたとも取れます。まあ人間と、人間でない  ものとの比較においての上位といった感じのものでしょう。「天主指  図」という語との関連を考えれば、その設計図が当局に見つかった場  合でも第一印象として「天主堂」の設計図といって逃げられるように  用意していたと思われます。武士の世ですから「天守」という字は城  の天守閣と直結し機密にすべき大事なものとなるはずで根ほり葉ほり  問い詰められそうです。持ち主に類が及べばたいへん、したがって実  物も天主と間違われるような不完全な部所があると推察されます。
(3)「二重石垣」(石くら)、また「石垣の内」(石くらの内)
  〈甫庵〉は「石垣」といっており〈公記〉は「石くら」だけです。   〈公記〉のいう「石くら」は、私たちが城を外から眺めた場合、おな   じみの石垣の部分に当たるといっていると思います。当然二重石垣
  と感じさせない、二重は外観から認識できない一体工事がされている  はずです。ここで〈甫庵〉は「二重石垣」という言葉を使い、これに  対して〈公記〉は「石くら」ですから、また両者とも、一重土蔵部分  には「内」という表現を用いていますから、「二重石垣」「石くら」  というのは上下一体としてとらえられており、この上の広さ廿間、十  七間というのが一つしか書かれていないから、形状は上から下まで同  じ面積つまり地面広がりになっていない直方体ということになると思  います。平地ではない山の上なのでそういう形になったと考えられま  す。簡素な形で高くそびえているといった感じでしょう。
   またここで石垣部分について定義をしたと考えられます。つまり、  このあと〈公記〉では〈甫庵〉のまねをして「二重石くらの上」とい  う語句を使っています。しかしこれは本来のものでない、下の既述の  ややこしい部分

   『一、石くらの内を一重土蔵に用い・・・
    二重石くらの上、広さ・・・・・・』
  
  というのは
  
   『一、石くらの内を一重土蔵に用い・・・
    二、石くらの上、広さ・・・・・・・・
     ・・・・・・
    二重め(その階のようす)』
  というように分解され「石くらの上」は石垣部分の屋上を指すことに
  なると思います。あとで二重めを検討するときにこれでやれます。


タイトル〈信長公記〉の天主記事(8)
記事No: 211 [関連記事]
投稿日: 2005/04/05(Tue) 19:02
投稿者inoue

 NO210の続きです。

 (4)十二間(余)

〈甫庵〉は二重石垣の高さは十二間といっているのに〈公記〉は十二間余といっています。常識的にいえば二重石垣という場合の、下からいえば天井、上からいえば床の部分の厚さがあるので「余」といったと考えられます。たしかにこの厚さが分らないのでは「石くら」の規模のことが本当か、信じられないということになってしまいます。〈公記〉に蛇石という大石を一万余の人数で三日もかけて山へ上げたという記事がありますが寸法は書いていません。〈武功夜話〉では「長さ五間有余」となっていて、それだけの石が切り出されており、また西洋の石建造物の知識がもう豊富なので可能にちがいないとしても技術的にこんな大きい石の建造物は当時では無理だといわれればそれまでです。
 この中間の仕切りと上つまり屋上の部分の厚さの合計は0・5間です。畳の長いほうのヘリの長さの半分です。メートルでいえば一メートル弱
となります。一つの肉厚が50センチだとまあこんなところでしょうか。〈公記〉は石くらの部分の総は12.5間と書きたかったと思われます。
 このように「余」というのは計算できるようにしてあると暗示しています。これは計算される基数が〈公記〉に入れてあるということでその気であたれば出てくるのでもう掴まれているのでしょうが、いいたいところは
二つの書物を別々にしっかり読んでも「余」を誰もが見落としてしまう、この「余」から計算してみようということに繋げてほしいというような仕掛けが日本の文献にあるということです。
 〈公記〉に信長が槍の柄を長くしたということが出ています。

 『三間柄・三間間中柄(ルビ=まなかえ)などにさせられ、・・・』

 があります。テキスト脚注では「三間半の柄をつけた槍」と書かれています。したがって「間中」というのは一間の「半分」という意味があるといわれていると思います。分数の3カ1/2、つまり3+1/2 の読み方です
が、これの応用で出てきたのが石くらの0・5間です。
 もし「間」が「ま」というひらかなだったらひょっとして「真」の意味になり、その際は三間のまん中、すなわち三間の二分の一になるのかもしれません。これは二重目のところにある「語句」から感じとられるところです。
 今「余」というのが0・5間というのがわかりましたが、すると先ほどの〈武功夜話〉の不完全表記が気になります。長さだけ「五間有余」と書いてありどこからかもってこられるのを待っている感じです。この「余」
があの「余」との連携がとれている、したがって〈武功夜話〉のいう蛇石の容積は「五間×0.5×0,5」見当の大石だったとみておいたらよいはずです。
 太田牛一が〈武功夜話〉に文書を残したので蛇石の長さだけでもとりあえずいまはわかるということです。〈武功夜話〉の資料価値は〈信長公記〉の補完資料といってもよいものです。
 武功夜話の安土城の建造に関わる記述は、はじめの四つの資料とちがって人間の動きがこまかく書かれています。担当奉行や石作業人動員数などが郷別に1人単位、10人単位くらいまでこまかくわかるようになっています。構造のことほど重要ごとでないと思ったのでしょう、また太田和泉
守周辺人物の記録だから従たる資料とみたのでしょうか、残らば残れという調子で壁に埋め込むという方法がとられました。空襲にでも会えば終わりでしたがそれでも残ったというものでたいへん貴重なものとみるべきですがあまり役に立たない資料とという烙印をおされているような感じです。
太田和泉守が前野家とたいへん近い親戚なので〈公記〉〈甫庵〉に書ききれなかった原稿をここに預けたというのがもとになっていると思われます。


タイトル信長公記〉の天主記事(9)
記事No: 212 [関連記事]
投稿日: 2005/04/07(Thu) 01:08
投稿者inoue

 NO211の続きです。

 (5)南北(北南)、東西(西東)

@〈甫庵〉は南北、東西といって世間で通用するものを書いているのに〈公記〉は北南、西東などといってこれに逆らっています。これはいろいろ重要な意味がありそうですが、まず天主の説明に影響がありそうなところからみたいと思います。一見したところ城内の記事で、部屋の羅列がされているところはどうなっているのかさっぱりわかりません。〈公記〉が西から東、北から南のような順番でのべますよ、といっているのだったら参考になるので見逃すことはできません。一般に部屋が羅列されて述べられるときはどこから、どういう順番で、どういう方向へ部屋を辿っていくのか、ある程度の公式のようなものが先に提示されていないと読者にはわかりません。「風」は普通は西風、季節では秋風をいうようで、西から入っている感じがしますがそういう一般的なものによる場合でも一言、説明がほしいところです。例えば目次六の「安土御普請仕るの事」の内容の一つである風景の叙述がおかしいことはすぐわかります。
 
 『・・・西より北は、湖水漫々として・・・・南は里の田畠平々・・
  東は観音寺山・・・・』〈信長公記〉

 の順番になっていてこの場合自然の形になっていません。観望しているのですから移動しながらみているはずです。そうすれば
  A 西ー北ー東ー南、もしくは、B 西ー南ー東ー北
の順序になるはずです。一望の場合でも書き落とすのですから同じです。
しかるに上の文は、C「西ー北ー南ー東」という述べ方をしている、要は
C の「北ー南」が飛ばした感じとなってます。この場合〈公記〉が「北南」といっているので A が合っていて Bは間違いということになるのでしょう。すなわち地図や現場をみていないからわからないが、観望文に間違いがあるのではないか、そうなれば観望文の、CはAに変えねばならない、すなわち
  『・・・東は里の田畠・・・・南は観音寺山・・』
ということになる、そうしてもよいのかどうか確かめてみるようにいっているのではないかと思います。それはそれで確認するとして上のようにかえてもよいのだったらここの意味は順序というものをあらわしていると取れます。

 こちらがどうみてもおかしいというのであれば一般的なこととして〈信長公記〉の文は変えてもよいといっていると思います。南北・東西という普通の読み方でも変えてよい場合もあるということかと思います。移動させてもよい、字を変えてもよいのです
 勝手に変えては駄目だというのは、誰でもそう思うから至上命令みたいになって読みの進展を遅らせているのが今の流れです。太田牛一など日本の文献は変えてもよいということになっています。この流れの上に安土城構造解読のことも乗っかっています。
 太田牛一はわざと間違えているのです。しかも目立たせています。
信長が鉄砲で狙撃された場面、杉谷善住坊によるもので元亀元年、
   『・・・情なく十二・三日隔て信長公を・・・』
これがもう一回元亀四年に回想のような形ででます。
   『・・・十二・三間隔て情なく・・・』
「情なく」が前後しているから間違いを作ったのは明らかです。「日」と
「間」の間違いです。時間を空間にすりかえているわけで「日」では意味もはっきりしない相当無茶なものです。
これは一つの重要な文献の読み方を解説しているのです。邪馬台国で「水
行十日、陸行一月」の読み方のことです。邪馬台国所在地が近畿か九州か
という話で今も決着がつかないということですが、戦国時代でこの話は終わっているようです。江戸時代のような車、電車のない時の人がこれは近畿までの距離だといっているからこれは決定的です。一方書いてある行程を辿れば九州北部の中ほどに達するわけでこれは問題ないところです。問題はここから邪馬台国まで「水行十日、陸行一月」が出てくるからはるか九州南の海面に行ってしまうわけです。ここで太田牛一は「水行十日、陸行三十日」は「日」を「間」と読んでしまったらどうかといっています。
これならあと四十間くらいで邪馬台国に着くわけです。これを書いた人は
卑弥呼に会っていろいろ聞いているのです。著者の自画像が出ているものです。したがって卑弥呼の第を知っている、10間×30間くらいの館に卑弥呼がいるといっているのでしょう。著者が臨場しておれば館のことは述べるのが普通のことです。読みは直感と根気よく積み上げることで進んでゆきます。直感部分は邪馬台国ではすでに二箇所ありそうだということが与えられています。だからそれに適応するように、一部文を入れ替えたり一字をかえて、読んだらよいわけです。方向が間違っているからかえよて読むということもすでにいわれています。したがって安土城の読みもそういうのが出てくるとみておいた方がよいと思います。


タイトル〈 信長公記〉の天主記事(10)
記事No: 213 [関連記事]
投稿日: 2005/04/08(Fri) 21:57
投稿者inoue

  NO212の続きです。

Aこの「十二・三間」の出てくる信長狙撃事件の一節は安土城の記事へ密接につながります。狙撃事件には「間」が出てきた、一方安土城構造の中心ワードは「間」であることはいうまでもないことです。広さ・高さという規模を表わす尺度が「間」ですからそうなるはずです。そんな一字ではそうといえないといわれるでしょうが、もう一つ、また例の木村又蔵が狙撃事件に出てくる、と同時に目次六の「安土城御普請・・・」のところにも出てくるからそういわざるをえないことです。
 テキストによれば〈信長公記〉解説で
  『・・・「村井長門守」とある右傍に「長門守」か「長間寺」と
   いう注記があり、』
 と書かれています。自筆の追記のようです。
すなわち「間」=「門」プラス「日」ですから、邪馬台国の記者がここから「日」=「間」への変換をしたのではないかと推理した、もしくはああいう読み方をしても合っていると確認できていたということがいえるのかもしれません。記者は「日」という字を使ったが、自分は「間」という字を「門」という字で読者に提示し「日」を入れてもらって完成してもらおうとしていた、つまり城の間をなにか別の語句で表わせるようにしたいと
考えた、という軌跡を現すものがこれではないかと思われます。とにかく
信長狙撃事件と安土城の記事がつながっていそうだと感じた契機は邪馬台国でした。
 先ほどの「十二・三日」のところでテキスト脚注では「日」は「間」の転写間違いであろうとされています。これはたしかに〈甫庵〉では「わずか十二・三間ばかり」となっていますから「間」が合っています。しかし〈甫庵〉〈公記〉とも、すぐうしろに「十日」という語句があり、「十二・三日」は「十日ばかり」ともいえそうだということを示しているので意識して作ったことであり転写のミスではないようです。
 ここの記事、「日」と「間」のすり替えは、時間と空間のすり替えですから東西・西東の比ではない、よほど大胆に変えてもよい、替えることに免疫をつけたものといえます。現にそれでやってうまくいく例がある、
倭人伝は「東・南」の読み替えと「水行十日・陸行三十日」の一字すり替えで核心にせまれたわけです。
 〈公記〉は〈甫庵〉の「小谷」を「大谷」と変えています。これは大きさが変わってしまうものです。東西・西東とは違って形質が変わってしまうのだからよほどのものです。「小」を「大」に持っていきたいというものがあるならば何らかの工夫がなされるのかも知れません。次の六左衛門が九左衛門にかわっているのもおかしいようです。(続く)


タイトル〈 信長公記〉の天主記事(11)
記事No: 214 [関連記事]
投稿日: 2005/04/08(Fri) 23:45
投稿者inoue

  NO213の続きです。
(続き)
もう一つ、信長狙撃事件と安土城をつなぐものもいっておかねばならないと思います。二つワンセットになっていて「木村又蔵」や、さきほどの六左衛門、九郎右衛門も何のためにでてくるのかわからないためです。
事件は杉谷善住坊という人が、江州佐々木承禎に頼まれて信長を鉄砲で狙撃した事件です。下記はその事件の登場人物で@は一回目の記事、Aは後年の二回目の記事、Bは安土城御普請のものです。

 @布施藤九郎 ○菅六左衛門  ▲佐々木左京大夫承禎  杉谷善住坊

 A祝弥三郎  ◎菅谷九郎右衛門  ▼佐々木承禎    杉谷善住坊

 B(布施)            ■布施三川守
                ★真鳥●佐々木左京大夫

 これでBのところに出てくるのが■「三川守」つまり徳川家康公です。
「布施」は「伏せる」、要は「□□三川守」と考えてよく、「□□」は木村が入ります。「木村・三川守」という対峙関係も表わしています。
 「布施」が「木村」というのは、@の「布施藤九郎」が「□□藤九郎」「毛利藤九郎」「毛利新助」「森藤九郎」・・・となって「木村常陸介」にいたるものです。
 杉谷という人は男性ですが、やさしい人だったのか至近距離からの狙撃に失敗します。うしろでやらせた黒幕は、公表では▲ですが、長い名全部にひらかなルビがついています。
 あとで杉谷から祝弥三郎が聞いたところでは▼(承禎だけにひらかなルビ=じょうてい)です。
 最後の★と●佐々木左京大夫(ルビなし)は「三川守」に近接して出てきます。つまり▲▼は●につながり「三川守」だというわけです。
★の人が平群真鳥という、たいへんな人物です。雄略王朝の五代の後見といわれ権勢をほしいままにした上帝といってもよい人で、「三川守」に懸かってきます。
つまり暗殺をやらせたのは徳川イエヤス公だといっています。
このことは信長公は知っているというですから、まあ化かし合いのような
同盟関係がだらだらと続いてきているといえます。とにかくそういう中で行われた毛利との戦いと敗戦であり、その最中一方で大工事が進められているということで安土城建設は命取りともなりかねない情況です。このあと目次では信長公が三河へ鷹狩にいくところで終わっています。信長公もなにか考えがあって付き合っているのでしょう。
 なお、○は6で、◎は9ですから1.5倍、同時にでてきた祝弥三郎の3を足すと12で、これなら2倍となります。小から大へのステップは換算率もあるでしょう。
 字も「菅」から「菅谷」になったのは、「門」から「間」と同じように字句でもやるのでしょう。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(12)
記事No: 215 [関連記事]
投稿日: 2005/04/10(Sun) 01:18
投稿者inoue

  NO214の続きです。

B字を極端にかえるためひらがなを中に入れるものもあります。誤字ではないがとつぜんひらかなで感じをかえ注意喚起して、そのままそれを利用して複数の漢字を導き出してきます。(安土山御天主の次第)の直前の毛利戦で「まなべ七五三兵衛」という人物が三回も出てきます〈信長公記〉。「まなべ」がひらかなだからとくに目につきます。〈甫庵信長記〉
ではこれが「間部主馬兵衛尉」となって出てきます。一応これが本名だろうと思いますがそうでもないようです。テキスト脚注では
  「和泉日根郡の豪族真鍋氏であろう」
と書かれています。つまり「真鍋」という表記をした文献があり、そちらの方が合っていそうです。要は
 「まなべ」の「ま」は「間鍋」の「間」であり、また「真鍋」の「真」
でもある、空間を表わす「間」でもあり、真ん中の「真」でもあります。
すなわち「間」は漢字を寄せ集めているといえます。これで終わってくれたらすっきりしますがまだ一件別の「まなべ」が出ます。このように〈甫庵〉が違わせているので二つの読み方ができるようになります。なお〈武功夜話〉では
「「間□(ルビ=欠落)七五三兵衛」という欠字の表記があります。これは「間鍋」の「鍋」も注意といっており、その場合は「真部」の「部」や「真辺」の「辺」に注意といっています。つまり「岡部又右衛門」の「部」は「辺」がある、ほかの読み方もありそうなどのことをいっているようです。それぞれからまた出てくることがありますが、そのように一字があちこちで反響します。北を南に、小を大にかえてもよいとしていますがそれが混乱をうむことなく責任をもって処理されていくようです。
このまなべ七五三兵衛は五つほどの役割をもってでてきていると思います。
  @次の城の記事のイントロ、
  A「まなべ」の「間」「真」のこと、
  B太田和泉(木村)の代役(戦死するほどの戦いをした)、
  C実際真鍋という人が戦死したという事実報告、
  Dカタカナルビで「シメ」と読ませている
 ことなどです。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(13)
記事No: 216 [関連記事]
投稿日: 2005/04/10(Sun) 11:19
投稿者inoue

  NO215の続きです。

 C〈甫庵〉は城自体のことについては、はじめに短いものを述べただけであと沈黙しているが、城読解のヒントはいっぱい撒き散らしている。「しめの」が太田和泉守の一面を表わしたように、〈甫庵〉は毛利戦で「寺田又右衛門」を出してきて岡部又右衛門の別面を語らせている。これはかろうじて生き残ったようだが、「寺」は「長間寺」という語句もあったように寺院建築の「寺」をあらわすのかもしれない。
〈甫庵〉は南北・東西といい、〈公記〉は間髪をいれず、北南・西東と反対で応じた。打てば響く、この二つの書が緊密な連絡のもとに、尺貫法とかいう単位のことで、反対で応じあうという例があれば、これが城の読解を示唆する決定打としてその例を出したと解してよいかもしれない。ある本の次の一節は、二つの書物間でこれが行われたといっている。

 『米百俵は・・・・太田牛一からきています。・・・・〈信長公記〉で  は信長公が家康公に兵糧八千余俵を送ったと書いています。・・・・  ・・・・・米(八十八)×百俵=八千余俵(この余は八百)・・・・  ・・・〈甫庵〉ではこれを二万石と訂正しています。・・・この八千  俵と二万石のあぶり出しは八千俵=二万石ではではおかしいので八千  石=二万俵といっています。太田牛一は一石は十斗、一俵は四斗、し  たがって一石は2.5俵という換算を教えてくれているのです。八千  俵は6,25倍しないと実態(二万石)を表わさないといっていま   す。・・・・』

 換算をいいながら左右反対表示をしているから、実際換算値は6.25に変わってしまうのに平気でやっている。勝手に石と俵を替えあって、つまり拡大、縮小をして出鱈目をいったかというと実態を表わした(領地を与えた)、その間をつなぐ数字は換算値として認識できる、というようなものになっている。これは本能寺の変のまえの徳川領地でのできごとであり、この記事は「四月十五日、十六日か・・・」〈公記〉ではじまるところに載っている。ここはまた黄金五十枚で米八千俵を調達したといっているから換算が意識されているところであり、同時に「間」が出てくるところでもある。「千五百間」とか「諸卒の間叶(ルビ=まかない)」といったものが出てくる。つぎの日にはおなじく長さ広さを表わす単位「町」も出てくる。
 また十五日には「本坂越え今切り越え」というダブった表現が出てくる。今切は翌日の記事で「今切の渡り」が出るから、一つだけでよいはずである。これは信長公狙撃事件の「千草越え」が意識されているのは明らかで、家康郷がでてくることもあり、天正四年安土城を語る目次の最後信長公三河鷹狩の記事に呼応するもので、この米百俵が出てくる4月15・6日の記事は信長公狙撃事件と安土城首尾仕るの事の記事を受けているのは確実といえる。邪馬台国から流れてくる大河の一粒といえるものであろう。


タイトルRe:信長公記〉の天主記事
記事No: 217 [関連記事]
投稿日: 2005/04/10(Sun) 13:50
投稿者Tm.

素朴な疑問なのですが、文字、一字一句に拘る以上、当然、井上さんは市販の印刷物ではなく原本そのものに目を通されているのでしょうね?
誤字脱字異字等々は様々な要因に起因するものですから、写本同士の比較検討も必要ですよね。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(14)
記事No: 218 [関連記事]
投稿日: 2005/04/11(Mon) 12:16
投稿者inoue

  NO216の続きです。

 D南北に北南で答えるのは、視点をかえてみるということをいっているのはあきらかである。字句の面だけに限っていえば読みにあたっては反対の意味をもつ語を意識せよといっていると思われる。
先にあげた〈武功夜話〉蛇石の寸法について長さ「五間有余」となっていた。読者にとっては長さを知るだけでは何の役にも立たない、容積を知りたいと思っていることは知っているはずである。「五間余」となると5.5間とということになり長さを聞いただけで終わってしまう。「有」の反対語は「無かゼロ」であるから五間有余を表記すれば「五間□余」ということになり□に入る語はすぐうしろの「余」しかないので「五間余余」となって五間×0.5×0・5という式がでてくると思われる。
 もう一件安土築城に関して「有余」が出てくる。〈武功夜話〉では作業人員の郷別人数などが細かくでてくるが「三百八十五人」とか「四百六十人」とか末尾をラウンドしたものとそうでないものが交錯している。これはいかにも頼りないという印象を与えるものとなる。
 ところが一件穴太衆(あのうしゅう)だけ「二百三十有余人。」になっている。これは直感的には234人といいたいというのが感ぜられるところである。つまり「二百三十・ゼロ・四人」と思い浮かべて書いた表記と
思われる。これで実際はここの人数は全部「人」単位まで把握してあるということをいっている、これは前野長康の控えだから資料は確かだと主張
したものといえる。
 安土城の柱でも同じことが出てきて、二重目の柱は「弐百四本」、三重目は「百四十六本」となっている。これは計では350であるが
    200加4=204
    150減4=146  
 という途中経過の入った数値である。したがってこの「4」は述べたいことがるという意味の「4」で実数はラウンドされた方ということができる。前と同じで「一本まで考慮した」信用されてもよいといっていると思われる。
 山から切り出してきた石の大きさがわからないと作業方法もわからない道理である。5×0.5×0.5を一応大石の基本部品と考えると、次のような「二合目」がくりかえし二回もでてくるつぎのような文も比喩ではないかと思えてくる。
   「長さ五間有余の名石それがしども押し上げ候。」
   「大石三間、五間と動き候いて土中に滅入り」
   「大石御山の二合目の土中に滅入り」
   「御山大手口二合目辺りにおいて上がらず候なり」
   「大手口二合目あたりまで」
   「大修羅車土中に二尺位喰い入り半ば傾き候。」
 はじめは意思が感じられる文である(有り意思)があとは受動的つまり「なし意思」となっている。これを「滅入らせた」「上げず候」「傾け候」にしたかったと思われる。つまり山の土中に石を埋め込みあとで土を取りはらったというような情景も浮かんでくる。
「二合目」は石くらの上の部分か、「二尺」は「二間」ではないかとなると立てたという感じがするが横に積んだほうが楽のような気もする。
 
六、石垣(石くら)
 これは、前に「三、二重石垣(石くら)」が出ている、その後ろの方の
「石垣(石くら)」である。これを
   前の方  @二重石垣(石くら)
   後の方  A  石垣(石くら)
として捉えてみる。
 @の「二重石垣」は次の三つの合成されたものとなっている。       「A、石垣」と「B、二重」と「C、二重石垣」
である。
 (一)AとAの組み合わせ、「石垣(石くら)ー石垣(石くら)」は
    外からみた石垣部分が「石くら」と同じということでこれは
    既述した。
 (二)BとAの組み合わせ、「二重(石くら)・石垣(石くら)」
    最初〈甫庵〉を単独で読み、二階とか、二層とかいう言葉で、
    石垣(甫庵は石垣としかいっていない)が二重になっていると
    読解できた。これがここではじめて〈公記〉の「石くら」と連
    結されたことが確認できるがもうその前提でここまできている。
 (三)BとBの組み合わせ、「二重石垣(石くら)・石垣(石くら)」
    が最後に残っているもので、「二重」が「石垣」に懸かるもの
    である。つまり「石くら」に外から、貼り付けるといった感じの
    石垣が二重になっているという意味である。これは「石くら」の
    上が立て横違うので長い方は三重になるかもしれない、二・三
    重といったものと思われる。こうなると石くらの上の端の部分
    はやや弱いのでこの上には建屋は建てなかったと思われる。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(15)
記事No: 220 [関連記事]
投稿日: 2005/04/12(Tue) 22:32
投稿者inoue

  NO217の続きです。

七、 「(一重、)」「(土)蔵」「其(是)より」「上七重(七重)」

 このあたりの文は正確にいえば一方が沈黙したりしているから
「内(□)を□(一重、)、□(土)、(□)蔵に用い、・・・其(是)より上七重(□七重)なり。」
というようになる。すなわち
「内(外にもあるのか?)」「(二重の内の一重か?)一重、」「石くら」を「土蔵」にかえるのか、「其れ」をなぜ「是れ」にかえたのか、著書には「上七重」といっていたがなぜ、今回「七重」なのか、おかしいではないかとか言うような問答があるという感じである。
@甫庵は「二重石垣」とだけいっていて前回で二重(石くら)となったが、ここで、それの「内」の話があるといっている。とにかく「内、一重、」をいれて「外(ほか)」や「二重目」があることを予想させる語句が使われた。
A「一重」、「石くら」の石は「土」にかえたい。「石くら」は「石倉」でなく「石蔵」としたいと考えた、
B其れを是にかえる、これは意味はおなじでも変えねばならないと思った
Bここで前に使った「上一重」の「上」という字をやはり使うべきではなかったと反省をした、すると「上」が行き場がなくて浮遊してしまう。@の「一重」の前に引っ付き「上一重」となりそう、ということがわかる。
こういう「上」という極小粒子は内に強烈なエネルギーを秘めている、いろいろの役目を果たして城宇宙の説明を果たしていく。前に「上七重」の上に「上一重」「二重目」という語句があったことを忘れていると「一重」の前に引っ付くなんておかしい、とかいうことになってしまう。木村又蔵もこんな微粒子で「蔵」というのは「福富満蔵」「可児才蔵」もなどもひきつけようとするものしれない、〈武功夜話〉で「加藤虎の助」と併記されている「木村又蔵」は当時もうそう呼ばれていたのであろう。若手で孫世代かもしれない。
後若干、抱き合わせの文の検討は残っているが〈信長公記〉の表記に及ぼす影響はなさそうなので、ここであとに備えて叙述体系という側面をもう一度考慮して〈信長公記〉の序盤を完成させておかねばならない。〈信長公記〉の次の一節で、はじめにおかしいと思うところがある。石くらの高さが一番、先にきている、これは通常では面積のあとになるはずで「山」に続く「高い」の強調のためにこうなったと思われる。つまり高く屹立しているものを建てよという命令があったとみられる。この意味を伝える役割がここで終わったとしてあとは後ろへ移動してみる。

『安土山御天主の次第
 石くらの高さ十二間余なり。
 一、石くらの内を一重土蔵(ルビ=ぞう)に御用い、是より七重なり。
 二重石くらの上、広さ、北南へ廿間、西東へ一七間、高さ十六間ま中あ り。』

ここで一番気になることは「(一、)」に対する「(二、)」がないなどの叙述体系の整合の問題であった。つまり最後の行のはじめをどうするかということである。これは今まで見てきた〈甫庵〉との問答などを考慮すると次ぎのように替わりそうである。問題のところは「二、」を設け、「二重め」を入れることで解消できる。(一部は既述)。

『安土山御天主の次第

 石蔵の高さ十二間余なり。
一、石蔵の内を 一重土蔵(ルビ=ぞう)に御用い、是れより七重なり。
二、   外を上一重土蔵            其れより        
二重め、石蔵の上、広さ、北南へ廿間、西東へ一七間、高さ十六間ま中あり。』

すなわち上一重の部分がのべられねばならないから「内」に「外(ほか)」を、「是」に「其」を出し、もう一行ここに必要だと思わしめ、一重に対する上一重をここに誘導させるつもりと思われる。これで「一重」と「上一重」と「二重目」がつながる。

〈信長公記〉間の変更は以上でおわり。あと不十分といえるところがのこっている。

広く流布された〈甫庵〉の出だしの文章は次の上であり〈公記〉は下のものである
「二重石垣に高さ十二間」
「石くら の高さ十二間余」
〈甫庵〉は「(二重石垣)に」となっていて、〈公記〉は「(石くら)の」となっているから、本当はここも大きいくくりがいる。(前に一件例示した)。つまり
   「{二重石垣=石くら} に(の)」
というようにすると、いままでと同じような説明をしなくてはならなくなる。「に」と「の」では、感じが大きくかわってくる。語感としては「に」はこの上になにかのっかりそう、という広さがあり、「の」というのは、石くらの上・下とかいうように、その次の語句と早急に結びつき、「石くら」の部分を説明するためのものとなる。〈甫庵〉の文
  「二重石垣に高さ十二間、広さ南北廿間、東西十七間・・・・・」
も上に何かがのっかりそうな感じというので冒頭に「二重石垣に」があるのはよいが、ここも高さが先にくるのは少しおかしい。これは
「二重石垣に広さ南北廿間、東西十七間・・・・・・高さ十二間」
というようになるほうがよい。前の文を次のように変えてみる(●と■を追加、高さを▲に移動)

 『 安土山御天主の次第
 ●二重石垣(石蔵)に
  一、石蔵(せきぞう)の内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。
  二、         外上一重・・・・・・・其より・・・・。

  二重め、石蔵の上、広さ、北南へ廿間、西東へ十七間
             ■南北へ廿間、東西へ十七間
     ▲(石蔵の)高さ、十二間余なり。高さ十六間ま中あり。』

●は広く読まれる〈甫庵〉の冒頭であり、「二重」が「一、」・「二、」に分かれるということだから必要文言としてそのまま入れる。■は入れる必要がある。「北南」を「南北」、「西東」を「東西」に変えるというのは第一感、同じではないか、といわれそうでそこが利いていると思われる。両方からみるので左右対称になっているといっていることは感じられる、また上からみればひし形もあるかもしれず、山だから変形矩形、三角形もあるかもしれない、横から、一方だけからみるのでは形はきめられない、上から見る感覚もいれたのがこの逆表示と思われる。なお「二重め」というのはどの階もすぐ座敷などの様子が入っている、ここの「二重め」はそのようにならないが、これは他の階が、そのまえにこのような説明を抜いた形になっているからと思われる。つまり他の階は
「三重め、(座敷などの様子)」は「三重め、・・・・・・・・(座敷などの様子)」という意味でほかで得られた知識で説明がいれられるように空けてある、という感じのものなっていると思われる。こうしてみると▲のところ「高さ」がダブってくるのでおかしいということになるが、そういう方向へいく読みの方が合っていそうである。
 


タイトルRe: 〈 信長公記〉の天主記事
記事No: 221 [関連記事]
投稿日: 2005/04/13(Wed) 01:34
投稿者Tm.

再度質問させていただきますが、文字、一字一句に拘る以上、当然、井上さんは市販の印刷物ではなく原本そのものに目を通されているのでしょうね?
誤字脱字異字等々は様々な要因(第三者による筆写の際の誤記、誤植等々)に起因するものですから、写本同士の比較検討も必要ですよね。

それに牛一自身、所望する相手によって内容の一部を変更していますし、表記も異なりますからね・・・・・・・・・


タイトル〈 信長公記〉の天主記事(16)
記事No: 227 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 16:11
投稿者inoue

  NO220の続きです。



(八)、「(御)用い、」「殿守(□□)」

(1)〈甫庵〉は「(土蔵部分)蔵に用い、」といっているのに〈公記〉は「御」を入れている。これは一番始めの「殿守(御天主)」に対応する「御」であるので、一重の土蔵部分の空間はキリスト教の関係者が使用していたといっていると思われる。天主堂がここに在ったというほうがはっきりするのかもしれない。ここは何に使われたのかということは誰もが抱く関心事であるので表記で答えたものである。
こういう優遇措置があるのは頷づけることで、当時想像以上にキリスト教勢力が、信長に影響力をもっていたといえそうである。
 
(2)〈甫庵〉は始めに「殿守」といって、またここ終わりのところで「殿守」を繰り返した。この念を押した言い方に対して〈公記〉は沈黙した。すなわち「御天主」とは繰り返さなかった。これは「ためらった」ということで、はじめのものもやむなく使ったことがはっきりする。今から城のことを述べるのではない、城を天主堂のこととして述べねばならないから、ここでその気持ちを態度で表明したものといえる。また城図面が「天主指図」という表題になった由縁をここで説明したともいえる。
(安土山御天主の次第)というたいへん長い一節の文章の中に▲「城」という字が一つもないのはこれを徹底させたものである。
また、「殿主」に対して答えなかったというのは追認と拒否があったのであろう。〈甫庵〉は目次で「てんしゅ」とルビを入れている。一回目「天」を使っているから「殿」は「御殿」の「てん」として認容して、「天」は追認したといえる。「主」は一回使ったがこれは不本意であった、これは本来の「守」を使いたかったのであろう。
「長門守」は「長間寺」とも書いていたらしい。「守」という字は頭にあったことは間違いなさそうである。「守」が「寺」に宛てられているのは「守」に「寺」の意味をもたせよう、「しゅ」を「主」であてようというのであろう。
ここに「門構え」が二つ「門」と「間」が出てきたから、結局「天守閣」という字が頭にあった、それを使いたかったと思われる。
(安土山御天主の次第)というのは(安土城天守閣の首尾(しゅび))
が書きたいところだったといってよいと思われる。

 この「門構え」から二条城の造営についても一言いいたいようである。次の目次の「一、」「二」ともに本文に「城」の表記がない。
『一、 安土御普請の事・・・・・・・・・・・・・・・・・城表記なし 
二、二条殿の御構(かまえ)御普請の事・ ・・・・・▲城表記は「御構え」
・・・』
ここで、目次「二」「御構え」というのは城の表記はしない流れの中の御構えといいたい、とれる。
要は▲の御構えは「城」のつもりでいっており、信長公が太田和泉守に「御構え」の造営修復を命じたことをいっている。あの二条城は太田和泉守・池上五郎右衛門の建造したものといいたいと思われる。いまの絢爛たる姿はその上に乗っかっているといえる。

はじめの「山」の部分を除いては一通りみてきた。
表記というのは手くだだから、おかしいと思ったところはよく考えて修正すればよい。二重目の構造の話で「二重石垣」は横から貼り付ける石垣が二重ということである。しかし、常識的にこれでは弱すぎるはずである。これは石垣が二重(二間)ということで計算が合ってきたりする。
一語の違いは文献の多様を超えてすでに克服されていることもわかる。目立たないが「是れ」と「其れ」との違いなどは一語が生きている。「是」は「爰」と同じようにここぞというときに使う「ここ」である。「それ」とは同義のようでそうではない。前者の場合は太田和泉守が一重土蔵に今いて説明している感じである。今ここにいるから居るところは入らないのである。「其れ」となるとすんなりと「上一重」からと読めるものである。
「上七重(七重)」などのやり取りは、一語の重みに市販の文献が応えうる証でもある。万一欠落した場合も想定して予備が用意されているものが多い。

総論の部分はこれでおわったが、思い思いに書いたような、短い文は、連携されて多くのことを語っていた、こうも書けるものか、と思われる。城について知識のないものでも満足できるほどに書けたのは驚異である。しかし、嵌め込んで読みさえすれば誰も同じ結論に達すると思われる。要はこれは筆者がいっていることではなく、太田和泉守がいっていることである。読みの間違いの指摘は歓迎されるところであり、こういう読み方にすべきという反論はあったほうがよい。同じ土俵の上での議論であり、土俵が書物の読みという小さいなかでのことだから噛み合うのはすぐである、このように話の核心をそらされないにもってくるために太田牛一の力が結集されたといえる。
しかしこういうような苦心はもともとないという考えによる否定や無視は、国会のやりとりのように別の土俵に誘導するもので、ここまでのべてきた伏線は無意識のものだということになる。それが論証されれば別である。そうでなければ、異見が出ない場合は既出の読みを選択することにしなければならないことになる。
しかしこういうような苦心はもともとないという考えによる否定や無視は、国会のやりとりのように別の土俵に誘導するもので、ここまでのべてきた伏線は無意識のものだということになる。それが論証されれば別である。そうでなければ、異見が出ない場合は既出の読みを選択することにしなければならないことになる。

これらで得た信頼を生かして「山」とか「南北(北南)」のところなどがさらにくわしく述べられて安土城の全容を語るということになろう。太田和泉守の行き方は、読者が読み進めてきてここはこうだという判断をしたらそれで行ってもらってよいというものがある。しかしそれも「山」などで語られる部分が前提となっていてこそそれが可能となる。例えば天守閣に戦うための付属施設があるかどうかということになるとここがひっかかってくることになると思われる。戦いと、政治と、経済を考慮して建てられた天下布武のための城ということになると天主にそのための構造物を付属せしめなければならない。ここは「山」から受ける感じから、それは無視してよいというのが出てくると思われる。


タイトル〈 信長公記〉の天主記事(16)
記事No: 228 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 16:13
投稿者inoue

  NO220の続きです。



(八)、「(御)用い、」「殿守(□□)」

(1)〈甫庵〉は「(土蔵部分)蔵に用い、」といっているのに〈公記〉は「御」を入れている。これは一番始めの「殿守(御天主)」に対応する「御」であるので、一重の土蔵部分の空間はキリスト教の関係者が使用していたといっていると思われる。天主堂がここに在ったというほうがはっきりするのかもしれない。ここは何に使われたのかということは誰もが抱く関心事であるので表記で答えたものである。
こういう優遇措置があるのは頷づけることで、当時想像以上にキリスト教勢力が、信長に影響力をもっていたといえそうである。
 
(2)〈甫庵〉は始めに「殿守」といって、またここ終わりのところで「殿守」を繰り返した。この念を押した言い方に対して〈公記〉は沈黙した。すなわち「御天主」とは繰り返さなかった。これは「ためらった」ということで、はじめのものもやむなく使ったことがはっきりする。今から城のことを述べるのではない、城を天主堂のこととして述べねばならないから、ここでその気持ちを態度で表明したものといえる。また城図面が「天主指図」という表題になった由縁をここで説明したともいえる。
(安土山御天主の次第)というたいへん長い一節の文章の中に▲「城」という字が一つもないのはこれを徹底させたものである。
また、「殿主」に対して答えなかったというのは追認と拒否があったのであろう。〈甫庵〉は目次で「てんしゅ」とルビを入れている。一回目「天」を使っているから「殿」は「御殿」の「てん」として認容して、「天」は追認したといえる。「主」は一回使ったがこれは不本意であった、これは本来の「守」を使いたかったのであろう。
「長門守」は「長間寺」とも書いていたらしい。「守」という字は頭にあったことは間違いなさそうである。「守」が「寺」に宛てられているのは「守」に「寺」の意味をもたせよう、「しゅ」を「主」であてようというのであろう。
ここに「門構え」が二つ「門」と「間」が出てきたから、結局「天守閣」という字が頭にあった、それを使いたかったと思われる。
(安土山御天主の次第)というのは(安土城天守閣の首尾(しゅび))
が書きたいところだったといってよいと思われる。

 この「門構え」から二条城の造営についても一言いいたいようである。次の目次の「一、」「二」ともに本文に「城」の表記がない。
『一、 安土御普請の事・・・・・・・・・・・・・・・・・城表記なし 
二、二条殿の御構(かまえ)御普請の事・ ・・・・・▲城表記は「御構え」
・・・』
ここで、目次「二」「御構え」というのは城の表記はしない流れの中の御構えといいたい、とれる。
要は▲の御構えは「城」のつもりでいっており、信長公が太田和泉守に「御構え」の造営修復を命じたことをいっている。あの二条城は太田和泉守・池上五郎右衛門の建造したものといいたいと思われる。いまの絢爛たる姿はその上に乗っかっているといえる。

はじめの「山」の部分を除いては一通りみてきた。
表記というのは手くだだから、おかしいと思ったところはよく考えて修正すればよい。二重目の構造の話で「二重石垣」は横から貼り付ける石垣が二重ということである。しかし、常識的にこれでは弱すぎるはずである。これは石垣が二重(二間)ということで計算が合ってきたりする。
一語の違いは文献の多様を超えてすでに克服されていることもわかる。目立たないが「是れ」と「其れ」との違いなどは一語が生きている。「是」は「爰」と同じようにここぞというときに使う「ここ」である。「それ」とは同義のようでそうではない。前者の場合は太田和泉守が一重土蔵に今いて説明している感じである。今ここにいるから居るところは入らないのである。「其れ」となるとすんなりと「上一重」からと読めるものである。
「上七重(七重)」などのやり取りは、一語の重みに市販の文献が応えうる証でもある。万一欠落した場合も想定して予備が用意されているものが多い。

総論の部分はこれでおわったが、思い思いに書いたような、短い文は、連携されて多くのことを語っていた、こうも書けるものか、と思われる。城について知識のないものでも満足できるほどに書けたのは驚異である。しかし、嵌め込んで読みさえすれば誰も同じ結論に達すると思われる。要はこれは筆者がいっていることではなく、太田和泉守がいっていることである。読みの間違いの指摘は歓迎されるところであり、こういう読み方にすべきという反論はあったほうがよい。同じ土俵の上での議論であり、土俵が書物の読みという小さいなかでのことだから噛み合うのはすぐである、このように話の核心をそらされないにもってくるために太田牛一の力が結集されたといえる。
しかしこういうような苦心はもともとないという考えによる否定や無視は、国会のやりとりのように別の土俵に誘導するもので、ここまでのべてきた伏線は無意識のものだということになる。それが論証されれば別である。そうでなければ、異見が出ない場合は既出の読みを選択することにしなければならないことになる。
しかしこういうような苦心はもともとないという考えによる否定や無視は、国会のやりとりのように別の土俵に誘導するもので、ここまでのべてきた伏線は無意識のものだということになる。それが論証されれば別である。そうでなければ、異見が出ない場合は既出の読みを選択することにしなければならないことになる。

これらで得た信頼を生かして「山」とか「南北(北南)」のところなどがさらにくわしく述べられて安土城の全容を語るということになろう。太田和泉守の行き方は、読者が読み進めてきてここはこうだという判断をしたらそれで行ってもらってよいというものがある。しかしそれも「山」などで語られる部分が前提となっていてこそそれが可能となる。例えば天守閣に戦うための付属施設があるかどうかということになるとここがひっかかってくることになると思われる。戦いと、政治と、経済を考慮して建てられた天下布武のための城ということになると天主にそのための構造物を付属せしめなければならない。ここは「山」から受ける感じから、それは無視してよいというのが出てくると思われる。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(17)
記事No: 229 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 16:39
投稿者inoue

  NO228の続きです。

安土城記事の解読にあたってよくわかってもらうためには、トータルを体系的に述べなければならないから、全体像の把握という意味で目次が重視されるのは当然である。太田牛一はほかのことを述べるために、ここも活用しようとしていることも見てきたとおりである。目次は読解手法も語っている。目次全体は次のようになっている。

『巻九安土御普請の事
一、安土御普請の事
二、十二条殿御構(かまえ)御普請の事
三、(原田備中戦死)  
四、(信長負傷)  
五、西国より▲大船を催し・・・・歴々討死の事
● (安土山御天主の次第)
六、安土御普請首尾(しゅび)仕るの事(■)
七、御官を進められ御衣御拝領の事 
八、三州吉良御鷹野の事  』

まず、●が一連の敗戦のなかへ喰い込んでいる。これは本文では余りに唐突に出てくるからおかしいとすぐ感じるものである。本来はその後ろの、六の内訳として語られる部分だということがわかってくる。要は全体の流れにそっているが、前倒しにしたわけである。
●を突出させた意味は、一方で9千人動員の大プロジェクトが進行中、負け戦が続く戦いと同時進行になっている。太田和泉や寺田又右衛門などは「五」で戦っていて一つ間違えば戦死かというような有様である。戦局不利なのに建設を強行している。極端にいえば安土城の建設がこの敗因だといっているかもしれないわけである。一件池上五郎右衛門の出てくる話がそれをいっているようである。「六」の内訳に(■大船のこと)や★(三木城の別所氏、浦上氏の参洛)
の記事がある。目次の五にも▲「大船」が出てくる。大船は織田信長の属性のような感じで、毛利の方に大船があったとは聞いていないが、とにかく表記は大船になっている。八百艘というからたいへんな数で思うところがあって「大船」と表現したともいえるが、これが上の■に出ていて縮小命令が出されていたようである。
岡部又右衛門は元亀四年が〈信長公記〉初登場で、大船建造の棟梁として出てくる。
  『多賀・山田山中の材木をとらせ・・・・・御大工岡部又右衛門棟梁にて・・・
   船の長さ三十間・・・・・大船上下耳目(じもく)を驚かす。』
これは奉行を書いていないが「木村二郎左衛門」ということになると思われる。多賀・山田・山中が出てきているからそういえると思われる。
つまりのち九鬼水軍に手を入れて、毛利の海軍を撃ち破ったハシリがこの木村・池上のセットの城大工技術を生かした大船の建造にあった。安土の天主次第の記事は毛利海軍に徹底的にまけ、まなべ七五三兵衛も戦死した記事のあとに、まったく突然に出現するのもそれがあるかと思われる。まあ安土城に必要な資財と競合するので縮小したような感じである。
また★の後は上の「七」が続き、その内容が、「信長内大臣」「内大臣右大将」に任ぜられた記事である。禁中へ大判ふるまいをして、「叡覧に備えられ」というように朝廷との関係を強化しようとしているといえそうである。一方城の建造については同盟国の徳川とのすりあわせもあったはずである。
いま不利なことをなぜするのか★のところ味方の三木城がこのあと背いてしまうのはこのときの負けが藩論に影響したといっていそうである。要はこれらを理解するためには、●の部分を移動させて例えば星の後ろへもってくると、(七)と因果があることがはっきりする。そういうような活用の仕方があるという意味で、その一つの例として(五)の中へ食い込ませたといえると思われる。太田和泉守は、桶狭間でられるように二元対立、正・反から合へと集約していく、というような大きなまとめかたができるという特性をもっている、安土城首尾については一つの結論は出したといっている。それについていろいろ見解があるというのは拒否しているようだ。
この目次のスタイルで●は「五」にくっ付き、一つの世界を語り、「六」にくっ付いて、本来の世界を語るといういわば中間子としての役割をはたしている。この書き方でもよい。二重石垣の例でいえば真ん中の天井部分の広さが出たら上下に応用してもよい、ということになったようなものであろう。いまの●の位置でそうした意図を察知してもらえば本来のところへもどしてもよい。また■の前に●をもってくれば、このときの負けは大船より安土城の選択にあったというようなことがわかるといっていそうである。
そのような活用の仕方があるという意味で、その一つの例として(五)の中へ食い込ませたといえると思われる。
つまり移動、繰り返しの使用は可といっていると思われる。
叙述方法でいえば
広さ(1)・・・・・・・・・・
広さ(2)・・・・・・・・・・
広さ(3)・・・・・・・・・・
というようなことにしてもよいのかもしれない。また一行が多方面に生かされていくのかもしれない。また提供された小道具や数字などが二重に活躍していくということになりそうである。
次のは太田和泉守の築城作業における自画像である。(観音寺山石切場奉行は藤堂高虎)
   『 丈(たけ)くらべ外七ケ村内、この人数三百五十人、これは藤堂与
     右衛門(ルビ=高虎)差配なされ石曳き。・・・・・』〈武功夜話〉
前後の表示と全く違った「丈くらべ郷」が出てくるのですぐわかり、「丈(たけ)」は長さも表わして、「石曳き」も「石引き」のことであろう。寸法を合わせて切ったというような作業をしている感じである。ここで藤堂右衛門高虎の名があるのが重要である。
〈信長公記〉で確実に著者自身を表すものは各巻のはじめに出てくる「太田和泉(守)これを綴る」で表わされる「太田和泉(守)」だけであり「太田又助」も「太田牛一」も「太田和泉守」であるとはいっていない。「太田牛一」が「太田和泉守」だというのは〈甫庵〉が「左府の士に太田和泉守牛一(ぎゅういち)という人あり」といっているからわかる、もしこの書が失われていたらわからないともいえる。したがってペンネームとしての太田和泉(守)という確かな人は他人に拠ってその存在を示していかねばならない。大きくて多様な才をもって各方面に活動しているからそれを表わすのはたいへんである。他の人物に寄生してそれを表わすということがされている。
したがって「太田又助」とかいう名前を使って自分を表現しようとしたといえると思われる。つまり「村井長門守」もそうだし「木村二郎左衛門」「しめの七五三兵衛」・・・・他書では「狩野又九郎」、「春日九兵衛」・・・・・とかになっている。これらは実在のほかの人(著名武将)などに引っ付きにくいものだからそれでいいが、惟住五郎左衛門、佐久間右衛門尉、木下藤吉郎秀吉、竹中半兵衛、黒田官兵衛、ここの藤堂与右衛門高虎・・・・などに拠って語る場合ばそれぞれも二人を表わすということになりかねないわけである。要は結果史はああだったが過程史(人物氏などもそれにあたる)はまるごと違うということになりかねない、ということになる。ひとりの書き手太田和泉守は、二足の草鞋をはいている。エネルギーをもったもう一面が飛翔していく、同様に各個人個人も、現在の位置にいながら少なくももう一つの力は秘めている存在といえる。まあそんなことはないと本人は疑心暗鬼にしても太田和泉守は人をみるときはそういうようにみなければならないといいたいらしい。
城建築のために用意された部材も同じようにみられている。本来の役目をはたすという一面はもちろん、もう一面が動き出してくるという構成になっている。そちらのパワーは10倍になったりする。・・・・・この二元性や二重性、二面性といった「二」が城構造の叙述に出てくる。
2の2乗、2倍、2分の1、平方根などである。「でう数」は、「てう数」の二倍のようだ。テボテボが二つあるからそうなるらしい。

 各論、天主内部の構造


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(18)
記事No: 230 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 17:12
投稿者inoue

  NO229の続きです。

各論、天主内部の構造

第1、吹き抜け伝説(その1) (空間の存在)
すでに吹き抜け伝説というのがある。これは一つは空洞があるというもの、もう一つは遮蔽物のない湖の近く山に高くそびえているから、また木造建築だから風をまともにうけてはどうなるかということであろうと思われる。
前者については「石くら」の上の空間があったのである。
太田牛一の二階部分の部屋の叙述は単なる羅列でありこれでは不親切であると前にもいっている。しかし不親切な部屋の羅列からは、景色を観望したように部屋を回遊しているのではないかという疑問も出てくるところである。そういうことを考えた人はかならずいるはずである。つまり中に空間があり、外側を回っているということも一応想定されるところである。つぎの再掲文のところまで前回に集約した。次の▲のところ以後が問題になるところである。

再掲『安土山御天主の次第
●二重石垣(石蔵)に
一、石蔵(せきぞう)の内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。
二、         外上一重・・・・・・・其より・・・・。
二重め、石蔵の上、広さ、北南へ廿間、西東へ十七間
■南北へ廿間、東西へ十七間
▲(石蔵の)高さ、十二間余なり。高さ十六間ま中あり。』

このあとの文は下のとおりで簡単なものである。

『(1)柱数(はしらかず)弐百四本立。(2)本柱(ほんばしら)長さ八間、
 (3)太さ一尺五寸、(4)六寸四方、(5)一尺三寸四方木。』〈信長公記〉
 
あと座敷の説明に入って、羅列があるわけで、それで二階は終わりである。構造ということになるとここまでで終わりということになる。
まず、あまり短い記述なのでこの部材のウエイトが大きいのかもしれず一通り見ておく必要が感ぜられる。「本柱」の意味がわからない、一見主たる柱というような意味もいっていそうなので円状のものつまり(3)のものとみる。本柱Aと本柱Bに分けておいても大した影響はなさそうである。わけたいと思うのは204本という数であり200本と4本というように分けてみるだけである。
       部材の点検
一、本柱
(2)の本柱Aは200本、長さ八間、太さ(3)の一尺五寸、
(2)の本柱Bは  4本、長さ八間、太さ(3)×2の三尺、(仮決め)

  二、本柱でないもの(木あり木なし)
   (2)と(4)の組み合わせ   長さ八間六寸四方
(これは「木」がないから柱には使えない?=他に役割がありそう)
(2)と(5)の組み合わせ   長さ八間一尺三寸四方木
(木の意味は柱に使えるからであろう?)

三、柱以外(タイル状のものとしても厚さがない、広さの表示に使えるかも)
  六寸四方
  一尺三寸四方(木は前に出たので取る)

この役に立ちそうにない 三、の部分が使えそうである

高さ十六間ま中あり。
▲ の後半に「十六間ま中あり」という意味不明の語句がある。テキストでは

『原本信長記、「間中あり」に作り、池田文庫本「信長記」「あり」の下に朱点を付す。「高さ十六間ま中あり。」と読むべきであろう。』

となっている。「ま」は「間鍋」の「間」、「真鍋」の「真」が考えられる。
 結局、漢字の「間」「中」「あり」が生きて「間」が「中」に「あり」ということである。
つまり一つは確実に「空間が中にある」ということをいっている。

第2、まず広さからやるのが筋である。

(一)広さ1(二重め石蔵の上)            上の広さ 南北廿間、東西十七間、                
この石蔵の部分の面積は、はじめに与えられている。
次にここには建屋が建っているのだからまず最初にそれに触れなければならないことは当然のことである。

(二)広さ2建屋広さ(一番外側)・・・・・・・・・十六間×十六間
一番外側の構造物の広さは16平方間である。高さは長さに変えてもよいから▲の部分
「(石蔵の)高さ、十二間余なり。高さ十六間ま中あり。」
はあとで高さも生かすがいまはそのまま長さにかえる。すなわち
「(石蔵の)長さ、十二間余なり。長さ十六間ま中あり。」
にかわる。「十六間ま中あり。」は、長さ十六間の「間」が「中」に「あり」、となり「間」は「空間地」の意味となる。ここは十六間を用いる。これは基数であるのでほかにいろいろの使い道が用意されている(4の二乗など)。

(三)広さ3建屋広さ(その内側)・・・・・・ 十二・五間×十二・五間 
   「(石蔵の)高さ、十二間余なり。」
     
が広さにかわる。長さ十二間の「間」「中」「あり」となり二つめの囲い地となる。 


(四)広さ4建屋広さ・・・・・・・・ ・・・・四間× 四間
与えられた数字から長さがもう一件できる。
16マイナス12=4間の高さができる。長さ四間の「間」が中にある。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(19)
記事No: 231 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 18:03
投稿者inoue

  NO230の続きです。

A、上からみたところ{ここでは仕切りの部分(四)を抜いている}

        十六間
     ーーーーーーーーーー    
                         外の十六間は、十六という
    |            |        基数を用いるということで
    |  ●―――●  |         もよい。(後述)
    |  | 空間 |  |十六間     
    |  | 四間 |  |        中の「四」は16マイナス12
    |  ●―――●  |         あるいは2の2乗の2乗が16
    |            |
     ―――――――――――        16の開剰(√)でもよい

   すなわち中に四間平方間(坪)の空間が存在することになる。
   ●は四辺形なので四本の柱(柱B)を想定した。

B、横からみたところ {北(南)から見たところ、東(西)から見たところ}

   |    |    |    |
   |座敷等|空間 |座敷等| 
   |    |    |    |
―――――――――――――――――――
    十二間   四間  十二間
 
がその基本図である。これだけでかなりの問題が解消されるが、もうすこしこの中身がしりたいところである。あと広さが二つある。


   (五)広さ4建屋の広さ  ・・・・・・・・・   十三間×十三間
     1間は六尺、1尺は10寸である。 
     部材 『三、一尺三寸四方。』というのが10倍の働きをする。それも「尺」
     を間にかえその10倍である。6倍(尺―間の言葉の変換)×10倍となる。
     四方というのが重要語句で四辺の拡大である。

   (六)広さ6建屋の広さ・・・・・・・・・・・・・・ 六間× 六間
     「三、六寸四方」の部材が、同じくその働きを高める

まとめて横からみれば下のようになる。


       A    B    C    4 間    C    B    A

    |1.5間|3.5間|1間|  空間  |1間|3.5間|1.5間|

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
    |・・・・・・・・・8間・・   ・・・|  ・・・・・8間・・・・・・・・| 
                
   
     Aのところが回廊、外と内(座敷)がみえる。
     Bのところが座敷のあるところ
     Cのところが廊下、空間の部分と座敷がみえる。
    程度のことになっていたと思われる。
     なお(三)の十二・五間×十二・五間の線は0・25間の差を生ぜしめるが、これは    各部分を仕切る柱などの仕切り材固有の巾などがあることによるもので、なかの3・5    間の座敷の部分に影響を与えない程度に廊下などへの食い込み部分となる。これは表示    していない。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(20)
記事No: 232 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 18:25
投稿者inoue

  NO231の続きです。

第3、高さ{十六間ま中(の高さ)あり}
   
十六間の真ん中=16掛ける二分の一
石蔵の上を吃水線とすると、海底側・八間、甲板側・八間に分かれる。上下に8間
は石蔵上一重と二重目の高さになる。したがって下からいえば

        石蔵 一重土蔵部分、 4間、
        石蔵上一重      8間      計12間
        ―――――――――――――――――――――――
        二重目        8間
  
となる。
これは柱高さ8間となっているからはじめからわかる。一重土蔵の四間もはじめに直感的にえられる。「高さ十六間」と〈公記〉がいっているから〈甫庵〉の十二間と比べて「4」間違っているとまず指摘されるはずである。。太田和泉はこの四間も八間も知っていてわれわれはしらない。総をいう場合一番間違いやすいのは十二間に四を足してしまう間違いであろう。つまり太田牛一は4を足してしまったのだろうと考える人がいるはずである。これは四間の間違いが意識され頭に残ればよいといえる。この4が中の空間の一辺を示していたと思われる(16マイナス12)。なお上のように16間×二分の一もあるが、「三間間中柄」は3・5間の柄であった。高さの16間余は16間プラス二分の一でこれは「十六間間中」となる。つまりはじめの
『高さ十六間ま中あり。』というのはそのまま「十六間間中」となり、16・5が出てくるといっていたことになる。


第4、内部の構造『十六間ま中あり。』

(1)これは意味不明語句で、「ま」が平かなでもあるので注意しなければならない。今これを「間鍋」の間と、「真鍋」の「真」で読んできた。非常に使い道のひろい語句であったがまだほかのこともいっている。
柱のこの階の本数の位置がちがっている。ほかの階はその階の一番おわりに付け足したようになっている。ここは前倒しされ
『十六間ま中あり。柱数二百四本立。(1)本柱(ほんばしら)長さ八間、太さ一尺五寸・・・・』
となっている。これは『十六間ま中「□□」あり。』という欠字で埋め合わせが必要である。(これが池田本で「あり」に朱が入っていた意味と思われる)ここは真ん中に「柱」ありといっている。これは端数「四本」の柱のことをいっていると思われる。
この四本は特別な柱で「本柱」というのはそれを意識していっていると思われる。長さ八間、太さ三尺(一尺五寸×2)であると思われる。
     ―――――――――――        
    |  ●――――●   |        
    |  | 空間 |   |十六間     
    |  | 四間 |   |        
    |  ●――――●   |        
    |―――――――――――  
すなわち中央に柱があったということである。一般の造作用という面もあるが特別の四本が重要である。ここになにがあったかというのがつぎのことである。

(2)「まなべ七五三兵衛」の「まなべ」は「真鍋」があり、〈甫庵〉は「間鍋」という特殊な字をつかい「間」を表わしたがもう一件「馬部」という人物が出てくる。これも「まなべ」と読む。すなわちもう一件
   『十六間ま中「馬」あり。』(真ん中、馬あり)
がある。これはおかしい、トロイの木馬じゃあるまいしということになるがこれは否定できない伏線がしいてある。

「まなべ七五三兵衛」のもう一つの役割が出てくる。この人物は〈甫庵〉では「間鍋主馬兵衛尉」となって2回でてくる。「主馬(しゅめ)」の「馬」は「め」である。〈信長公記〉は「まなべ七五三兵衛(ルビ=シメノ)としている。おそらく(ノ)は「七五三(ノ)兵衛」という意味であろう。使用例があるがカタカナのこの「ノ」の出てくるものは太田牛一の登場が予告されていると思われるがそれは別のことである。「七五三」を「シメ」と振っている。「メ」は主馬の「馬」だから、この「シ」は「四」を表わしここの四本の柱に対応させたものと思われる。
直前の毛利戦で佐久間右衛門尉信盛の姿が明滅している。これは太田和泉と馬印が同じで佐久間は白の吹貫(鯉のぼりの波のようなもの)、太田和泉は「白の四手しない」でこれは同じだととくに言及があるものである。馬はおそらく「白」ではないかと思われる。

主要文献にもこのことに対して用意してある。岡部又右衛門が媒体となった話なので城のことである。ある事件を別の場面で語ることがあるがそれがここにでてきている。
名和無理助(なわ無理介)が登場してきて長篠で戦死する。

『・・・名和無理助・・岡部次郎左衛門・・名和無理助・・・無理助殿・・・名和殿は道理の介にならしませ、無理なることをする身でもなし・・・・信長公・・・家康卿今度の御助成忝き事、・・・・宮々造営の事、岡部又右衛門尉に仰せ付けらる。爰に柴田葦毛という名馬あり。・・・明神に是を奉らる。・・・この俊馬を神馬に引き給いしとなり。・・・・』
〈甫庵信長記〉
岡部と神馬を結びつけた挿話である。また岡部と柴田の名前に無理がある、というもので岡部は池上、柴田は明智といっている。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(21)
記事No: 233 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 18:46
投稿者inoue

  NO232の続きです。

第5、三重め、との関係

(1)三重目、の高さは、何も書かれていないから原則として二重めと同じと考えてよい。柱四本が、二重めプラス「四」、三重めマイナス「四」となっている。融通をしていないが、柱の融通可能を表わしている。部材共通で8間の高さとみてよい。

(2)三重めに、二重めと同じ空間があるかということになるがこれは無しである。すなわち、
柱は三重め 150−4=146
  二重目 250+4=254
 となっている。二重目が、柱を三重めから融通をうけたわけで、それは二重めに余分な
造作、つまり中の空間というものがあったことによるものである。三重めの責任者はそのようなものはいらないといっている。ここは信長公の御座所があるようでなかの空間はないほうがよいという感じである。

(3)柱数が三重めは二重めの、5分の3になっている。常識でいえば柱数が減ったらその割合で面積、おそらく高さも縮小さるべきである。この本数の違いは二重めの造作が巧緻を極めたことによって生じたものである。高さ広さは二重めと三重めは同じである。


第6、二重めの形状

部材の点検でつぎのようにしていた。

 『二、本柱でないもの(木あり木なし)
  (2)と(4)の組み合わせ   長さ八間六寸四方(柱には使えない?=他に役割)
  (2)と(5)の組み合わせ   長さ八間一尺三寸四方木(木の意味は柱に使える?)』

柱に使えない六寸四方は、部材(3)本柱太さ一尺五寸に結びつくのではないか、つまり
(3)(4)の組み合わせである。
 太さ一尺五寸に四方直角に切り目をいれると、切り目の長さによりさまざまな形状が生ずる。たとえば、一定の長さ以上にすれば切り口は正方形になり、大きさがさまざまな小さい四角形を生んでいく。
要は図示できないが一尺五寸に六寸四方の切り目を入れた場合、ゆるやかな正四辺形になると思われる。八角に似たような恰好になると思う。二重めの内部はそのようになっていたのではないか。西から入って、三つのコーナーを経てもどってくるといった場合の角にやわらかさがあったと思われるのである。役に立たなさそうな部材でも自然のなかでは生かされていくようである。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(22)
記事No: 234 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 19:18
投稿者inoue

  NO233の続きです。

第7、吹き抜け伝説その2(総と総面積)

伝説で「吹き抜け」といわれているものがあるといったが総もわからないというようでは風の抵抗を排するなどのことは思いもよらないことになる。高さを試算すると次のようになった。結果▲▼に示したように、四重めと五重めに、4.8間という割り切れる端数が出た。「5間マイナス0.2間=4.8間」なので0.2間というものに何か役割がないのかと思うだけである。これは構造の専門の人に確かめるしかないことで一応指摘するにとどめておく。いらないといえばそれでよいことであるから。
一般的な話として天守は高く華麗にして人を驚かせればよいわけで、土台が出来たら、その上に古来からある優美、長寿の五重の塔をすこし大きくしてのせれば大体恰好がつきそうである。太田牛一も池上家に伝わる建築の技量を借りたということは容易に察せられるところである。風雨の対策ができているから長持ちする、それがどういう形で取り入れられたかということも著書にあればこれにこしたことはない。いずれ天主指図やら村井日記により補正されるようになっているのだから、行き過ぎるぐらいに読みをしておいても損はない。またそれをやっておかなければ二つの書物のなかの意味不明語句はとけないということになるかもしれない。五重の塔をいうならこれは正方形であるから均整美というのも出ると思う。すると土台が何故、直方体なのかというような疑問もでてくるといったことで、まあいまは埋め合わせを前提としている不完全なものをみているからこのときに想像力が働きやすいし、行き過ぎて恥をかくくらいでも結構といいたいところである。
  
内部の総と平方間(坪)


総 45間(約81メートル) 高さ根拠              面積平方間(坪)
―――――――――
七重目   三間  〈公記〉の記録は高さとみる             90平方間
――――――――――
六重め   四間  〈公記〉の記録は高さとみる            120平方間
――――――――――
五重め   五間   原則で四重目におなじ     4.8▼      154平方間
――――――――――
四重め   五間   常識的に考えて8間×90/150=4.8▲      154平方間
―――――――――
三重め   八間                            256平方間
―――――――――
二重め   八間                            256平方間
●――――――――― この広さ南北20・東西17間立柱の平面、 ----------------------
一重め   八間
―――――――――  石倉上、一重の天井・二重目の床 ---------------------
土蔵    四間
―――――――――  石倉下(地面) -----------------------

すなわち内部の高さが81間になった。これは90間のちょうど9掛けである。のこり9間が屋根などの部分とすると、これからいえることは建てようとした高さは90間ではないかというのが出てくる。仏塔の上に「九輪」というものがあるように「九」のもつ意味も重要ではないかと思われる。高さ90間の城がそびえていたというのが結論であるがこれは我田引水かもしれない。

三本の柱
さきほどいいかけたが、山の上の城で、上が立方体なのに何故、石蔵の面積が
20間×17間
なのかよくわからないのである。南北・東西(北南・西東)に適うものはやはり立方体、正方形でないとどうしてもおかしいと思われる。一番不自然なのは二重石垣(石蔵に横から貼り付ける)の弱さをカバーする寸法が十分とはいえないのである。
長い方は(20間―16間)÷2=2間
で全く問題がなさそうであるが
短い方は(17間―16間)÷2=0・5間
はどうみてもこれでは足りないのである。
 一方、四重めの柱が93本となっていてこの三本の引き取り手がないのがまた気になるところである。
  この三本は三間に変換され、石くらの上十七間を二十間にするのではないかと思われる。
なぜこうしたのかということは(安土山天主の次第)という文に「城」という字がなかったということが関係すると思われる。つまりこの大きな石蔵は「城」の存在を示すものにほかならない、天主堂と思わせるために少し歪めたのではないかと考えられる。
目次 『 一、安土(ルビ=あづち)御普請の事
        ・・・・・・・
        (●安土山御天主の次第)
         六、安土(ルビ=あづち)御普請首尾仕るの事
        ・・・・・・・     』
となっており(あづち)のルビが付いている。一方石蔵は(せきぞう)と読ませており、音よみである。●は「アンドサン」と異国風に読ませたかったのではないかと思われる。太田牛一のものはおかしいと思ったら変えてもらってよい、確実と思ったら付け加えてもらってよいというようなものがある。これがそれにあたるかどうかはわからないがもしそうなら、20間×20間の安土城の石くらはほかの書物から見つかるのかもしれない。


タイトルRe:信長公記〉の天主記事
記事No: 235 [関連記事]
投稿日: 2005/04/19(Tue) 21:08
投稿者Tm.

再度質問させていただきますが、文字、一字一句に拘る以上、当然、井上さんは市販の印刷物ではなく原本そのものに目を通されているのでしょうね?
誤字脱字異字等々は様々な要因(第三者による筆写の際の誤記、誤植等々)に起因するものですから、写本同士の比較検討も必要ですよね。

御説の学術的認知にも係わることですし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(23)
記事No: 236 [関連記事]
投稿日: 2005/04/20(Wed) 07:12
投稿者inoue

  NO234の続きです。

第8、二重めの座敷の様子

いままでいってきたことが合っていそうかということも気になるところである。とくに二重めの内部の造作がなんといっても生命線といってよいところと思われるので、難解な二重めの座敷の様子から、これを検証してみようと思う。また一語の重みに市販されている文献が応えきれないのかどうかも合わせて検討してみたいと考える。この座敷の様子はルビが活用されているところであり、恰好の検証材料となるところである。長く退屈な話となる。


二重め座敷等の様子の本文
 
『西十二畳敷(★ルビ=でふじき)・・・。
次四てう敷、・・・・・又十二畳敷、・・・。
又其の次八畳敷、奥四てう敷に雉(きじ)・・・・。
南又十二畳布( じき)、・・・・又八でう敷あり。
東十二畳敷、
次三でう布、
其次、八でう敷、・・・・。
又其次八畳敷、・・・・。
六でう敷、●御南戸(なんど)、又六畳敷、●何れも御絵所金なり。
●北の方(かた)御土蔵(どぞう)あり。●其次御座敷、
廿六でう敷、●御南戸なり。西六でう敷、
次十でう敷、又其次十でう敷、
同十二畳敷、●御南戸の数七つあり。
此下に金燈炉(きんどうろ)をかせられたり。』 

これは「畳」と「でう」「てう」という単位で成り立っているのは明らかで、それぞれ意味するところは違うかもしれないというのは学問的といえるであろう。しかし★から「でふ(敷)じき」と「でう敷」は同じだ(つまり「畳敷」と「でう敷」は同じ)というのは表記が違っており、市販のテキストでも否認される。つまり、ルビの「でふ」と「でう」は見ただけで違う。
また「敷」もちがう。「畳」の「敷」には「じき」というルビが付してあるが、「でう敷」の「敷」にはまったくルビがない。「しき」と読むかもしれないのである。そういうのはルビを省略したのだろうというかもしれないが「布」にはチャンと「じき」というルビが付してあるということになる。しかもそれはこの同じ一節のなかの話で遠くから持ってくるというようなものではないのである。「じき」と読んでは困ると著者がいっているかもしれないとなってくる。 するとまたいうだろう。「主張したいならば類書を徹底的に調べてからいうべきだ」と。そんな環境にいないものにそんなことをいっても無理だ。 筆者にしたら、とにかくこの市販品のものは手を抜いていない、これを使うといって使用してきている。(もし調べたら必ず応援してくれている、たとえば「でう敷」の「敷」に「しき」というルビや朱点があるような。)実は同じここの文章内でもう応援がある。 常識的にはこれは「しき」と読むというのは根本的に強い応援なのである。ルビのない「御座敷」「御坐敷」というのが何回も出てくる、これを「じき」と読む人はいないし、「小坐敷(ルビ=こざしき」というのもほかの階で用意されている。また注やルビのような細字は、本文の文とは独立しているという例は数多い、ということなどですでに一歩有利にはなっているがこれをあまり援用してはいけないことはわかっているから説得材料、着目材料とするにすぎない。
結局は分けて計算して積み上げて矛盾がなく納まるところまでいかなければどうにもならないのである。
● の語句などは一見して移動させねばいけないのではないか、と思われるがこれは別にしてとりあえず表記ごとにまとめてみる。なお座敷部分の総面積は

3.5×13×2 + 3.5×6×2=133平方間である。
はじめの文からまとめると
(1)畳敷――――――12・12・8・12・12・8・6・12=82
(2)でう敷――――― 8・8・8・6・26・6・10・10 =82
(3)てう敷――――――4・4                = 8
(4)でう布――――――3                  = 3
となる。
でう数(2)換算では   41+82+4+3=133平方間(坪)
となり一応ぴったりと合う。
とくにメインの(1)と(2)が生数で合うように作られたと思われるのでここはピックアップも合っていそうである。いま与えられた133平方間であわそうとしているのだから、平方間は畳二枚で(1)(2)の生数が同じだから、また(2)と(4)は同じ面積であるようでもあるので、すこし手をくわえると換算値も出てきそうである。それは別として、(1)と(3)を半分にして、(2)と(4)は生数でとにかく数がピッタリ合ったのでまあ、二重めの3・5間幅は合っていそうである。
ここで(3)と(4)はウエイトが極端に低いので例外あつかいであろう、なにか重要な引っ掛けがあるかもしれないと用心しておけばよい、ということであろう。もしこの表記でうまく納まれば市販の図書は(当たり前のことだが)しっかりしているということになろう。

メインの二つの関係を先に片付けると、畳数というのは分解できない最低単位であることは一応感じられるところである。「四畳半」(ルビ=しでふはん)という表記が五重めにあるから、そういえると思われる。畳は「でふ」というのはここでも守られている。
一方私たちは一坪という畳二枚の単位も持っている。(2)はそれかもしれないということに気づく、まして「2倍」とか「2分の1」とかの雰囲気の中にある。

ここで(3)(4)の役目が中間媒体として出てくる。
先にいっているように
(1)の「畳敷」は(でふじき)だから「(2)でう敷」「(3)てう敷」の「敷」は常識にしたがって「しき」と呼んでもよいだろうということになる。つまり(2)と(3)は表記が前後それぞれ二通で違ってきている。つまり
(1)畳は「でふ」「じき」、
(2)は 「でう」「しき」、
である。(3)は「てう」「しき」だから(2)と「しき」で合うから半分(2)の要素が入っているといえる。
結局三種類はこのように区別されているが、もう一つ「(4)でう布」を使っている。
これは「でうじき・でうしき」という両方読みができるものである。すなわち(2)は「でう」「じき」もある。「でふ布」というのはないのである。したがって
(1)は「でふ」「じき」だけ
(2)は「でう」「じき」と 「でう」「しき」
(3)は「てう」「しき」だけ
(4)は「でう」「じき」と 「でう」「しき」
となる。単位はこれで(1)(3)は、(2)(4)の半分であるといいたいらしいということがわかる。しかしこんなことをいっても実際は「うそだろう」となるから、というよりも辛気臭い話だし、二通りになるというだけで、二倍とはいっていないではないかとかになってしまう。したがってこれはしまいこんで、はじめにいったように「でう」は「てう」の倍と直感的に見て、とか「坪」という単位を実際使っている、さいごはこういう矛盾のない結論になるから、結果的に見て、間違いないところである、とかいって話を進めることになる。データベース化も進めずに、ほかの原本もみているのか、素人はまあそんなことはやっていまいという感触でいうが、原本照査していまいったような細かい話の材料を得て話ししても「うそだろう、」で終わってしまう領域の話になるに過ぎない。99パーセント市販の書物で充足できるからそれでよいのである。ここの部屋の様子の記事も完全になされている。昔の人が誤記ばかりだから修正したというのは小瀬甫庵やカントの弟子などの話として伝わっているがこれは表記注意という意味で使っており現在いわれる話とはちがう、昔の人が書類や作品を捨てたとか失くしたというのは後日に備えておいて置くという意味で、いまのように命令が出されたら公文書であろうが私文書であろうがまともに焼いてしまう、隠してしまうというのと話が違うのである。犯罪とされていることがらでもこの調子である。

ただ(3)は(2)の内数かもしれないというのは出てきそうである。
 でう・でうーーじき・しき
    てうーー   しき
つまり、二通りと一通り、「でう」と「てう」で4分の1のような感じ。
畳数で表現しない理由はなにか、ある箇所だけに使われている、件数が2件しかないといういろいろなこととセットしてもそういう結論に傾いていく。

(4)布ばりだということもわかるが「布」というものにルビを付さずに読み方はどうなるのか考えてもらうようにしている。立ち止まってなにかいっているのかもしれないと思わせたらよいと考えたといえる。布は「しき」ともよみ「じき」とも読むから本来(2)に入れてしまってよいものである。なぜ独立させたかというと(1)と(2)の計算が両方82になったのではずした、というのとこれが特殊な衣類をいれる納戸であったからである。なんとなく洋風と感ずるものである。


タイトル 〈 信長公記〉の天主記事(24)終
記事No: 237 [関連記事]
投稿日: 2005/04/20(Wed) 08:16
投稿者inoue

  NO236の続きです。

  (3)から片付けることにする。これははじめの永徳のところだけに出てくるもので「内数」といえる感じのものである。

『西十二畳敷、・・・・狩野永徳(ルビ=かのえいとく)・・御座敷の内絵所(ルビ=えどころ)悉く金なり。◎同間(ルビ=おなじま)の内書院あり。是には・・・・
をかかせられ、●次四てう数、・・・・・・又十二畳、鵞(ルビ=が)をかかせられ、○則鵞の間と申すなり。又其の次八畳敷、▲奥四てう数に雉(ルビ=きじ)の子を愛する所あり。南又十二畳敷』〈信長公記〉

●を◎に、▲を○に移動させたらわかりやすい。すると

『西十二畳敷、・・・・狩野永徳(ルビ=かのえいとく)・・御座敷の内絵所(ルビ=えどころ)悉く金なり。●次四てう数、◎同間(ルビ=おなじま)の内書院あり。是には・・・・をかかせられ、、・・・・・・又十二畳、鵞(ルビ=が)をかかせられ、▲奥四てう数に雉(ルビ=きじ)の子を愛する所あり。○則鵞の間と申すなり。又其の次八畳敷、南又十二畳敷』

となる。◎のルビは付けなくてもわかるから、それをわざわざいれたのだから、(かのえいとく)(えどころ)を受けているというと「うそだろう」となるからこういうのは援用しない、援用してもよいがあほらしくて聞かないということになる。
ほんとうはもう一方の読みと連動させてのことになる。○の前に、対として同間(ルビ=おなじま)というものが要る。(が)と(きじ)があるからそうしてもよいかもしれないというのも出てくる。しかしそれも手もとで控えておく程度である。ここで援用するのはせいぜい、
○あとの方に「奥」という語があるから、内数らしい。
○同間(ルビ=おなじま)というのはどうしても二つのものが重なっているから内訳らしい。
○いれかえたら文章がしっくりした、著者はもう文章の入れ替えがあることを明言している
などのことをいって説明をすることになる。ただ思惑のない一般の人は素直に内数というのを支持してくれると思われる。すなわち読者は書院の面積を知りたいと思っているからである。それに根拠のある話がついているから。

次に(4)のことになる。これも移動させればわかりやすいと思われる。すなわち

  『(4)三でう布・・・御南戸・・・・北の方土蔵あり。・・・御南戸なり。・・・
   御南戸の数七つなり。・・・』

となっているのを

  『(4)三でう布、――御南戸・・・・北の方土蔵あり。―――御南戸なり。・・・
   御南戸の数七つなり。・・・』

のようにつづけると(4)は納戸である、(土蔵)と呼ぶものが「御南戸」ということがわかり合計七つあることになる。読者はここにきて納戸の寸法がないのがおかしいと感ずるはずである。初めにつぎのようになっていた。

(1)畳敷――――――12・12・8・12・12・8・6・12=82
(2)でう敷――――― 8・8・8・6・26・6・10・10 =82
(3)てう敷――――――4・4                = 8
(4)でう布――――――3                  = 3

でう数換算  41+82+4+3=133平方間(坪)

(3)(4)は「でう数」換算、計7でこれは納戸7と照合されることになるから一応納戸の一つの広さは「一でう数」(一坪)と見当がつく。

つまり(3)が内数とわかったから、ここから4がきえてしまうが、納戸の4が用意されていたから、(1)(2)と納戸で133坪となるのである。

この「土蔵」は、この迎賓館というようなところにはまったくそぐわない。「土蔵といわれるところ」「太田牛一が土蔵と形容するところ」の意味でよいと思われる。この「でう布3」は布張りだから洋風、つまり天主堂の祈りなどに使う衣類の納めてある納戸が(4)ということになる。つまり総論の「(御)用い」が効いてくる。

ここで先の表は
(1)畳敷―――――12・12・8・12・12・8・6・12=82  41
(2)坪敷――――― 8・8・8・6・26・6・10・10 =82  82
(3)納戸敷―――――4・4                = 8   4
(4)納戸布―――――                   = 3   3
   計                          175 133
となる。つまり表記はこの角川文庫版一つで問題なかったことになる。

まあもう一つ追記すれば、はじめ(1)82と(2)82で生数がはじめに合ったとして喜んだ、こんどは内数として生数8が(1)か(2)にでも加わったら合わなくなってしまうではないかと文句をいう人もあるかもしれない。これは問題ないようである。もう入っているから。
 
このように数字のトリックがいろいろあって16間の「16」という数字もそれ自体として意味をもたされている。高さ16の半分で八間を出すために使われたというように思われがちだがそれなら32間の4分の1だから4分の1の表記の工夫で出せるはずである。
○16は外の面積の一辺として使われたり、
○16=4+12で「4」と「12」も役にたった、
○16=4×4で中の面積を出していた、
○16=8×2で「8」が使えた、
○16=6+10で「6」が使えた10は10倍せよという意味かもしれない、その意味では
    6×10も6倍して10倍するという指示もあったかもしれない、
○16=20−4で石蔵の寸法につながる。4も重要な意味があるので20は本来的という意味があるかもしれない、
というようになっていると思われる。つまり「高さ」を「長さ」に変えることについて応援した数字でもあったと思われる。これを先に利用して「変える」という操作を付記した方がいいのかもしれない。
 数字の操作はもっとも苦心されたものの一つ、信頼をえようとする一つの現れといえる。
なお短いほうの石くらの長さが十七間なので、これは16+1で、一六・七間というものになる。肝心のところややあいまいとなっているといえないか。


  第9、つり天井伝説

権勢を誇ったといわれる本多正純が、秀忠に吊り天井を仕掛け、お家取り壊しになったという話がある。もちろんこれは権力争いの結果の冤罪であることは間違いないところである。佐渡守家康に代表される権勢をほしいままにしたこの勢力も反対陣営に破れこうなったものだ。
 本多佐渡守家の吊り天井の話は安土城の伝説の一つであろう。佐渡守に代表される勢力が、安土城の首尾に関わったからである。これはまた吊り天井があって大きなものを吊り下げたという事実をもいっているようである。伝説は無視できないと思われる。
 安土城の構造の謎を解く鍵は、太田和泉守が仕掛けた米百俵の換算の物語にあった。後世にこれは使われた。よくできた面白い話だとみなが感心し、太田和泉守を評して「俵や」と呼んだのかもしれない。 ・・・・・・・・
                                  さようなら
                     

  


タイトル結局、独りよがりの主張に終始されただけのようですね。
記事No: 238 [関連記事]
投稿日: 2005/04/20(Wed) 09:15
投稿者Tm.

井上さんの御説に反証を挙げるのは簡単ですが、「それに費やす労力に見合うもの(=社会的認知度)が無い!」というのが実情です。


タイトル不思議ですね。
記事No: 197 [関連記事]
投稿日: 2005/03/21(Mon) 21:09
投稿者講談社ロジコム

貴殿の著書に対する反響が小さいのはなぜでしょうね。