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タイトル安土城の構造 その3
記事No: 172 [関連記事]
投稿日: 2003/04/01(Tue) 22:08
投稿者森嶋

安土城の構造 その3 画像サイズ: 598×426 (96kB) 信長時代の安土城の「本丸」「二の丸」,言換えると,
太田牛一『信長公記』で書かれている安土城「本城(本丸)」
「二の丸」はどこなのかについての私の考えを説明します.

現在の「本丸」「二の丸」「黒金門」等は,正確には,
「伝羽柴秀吉邸」と同様に「伝本丸」「伝二の丸」
「伝黒金門」等と表記すべきです.
これまでの私の議論では,この点について考慮してきませんでしたが,
以下では,明確に区別して表記していきます.

信長時代の安土城の本丸は,
伝本丸,伝二の丸,伝三の丸,天守取付台,
台所曲輪,帯曲輪などをあわせた,
安土城中心部分全体をさしていたと思います.

以前にも論じたように,
中心部分の各曲輪の建物が結合して一つの御殿を構成していたと私は考えています.
もしそうであれば,この御殿全体が「本丸御殿」であり,
各曲輪をあわせて「本丸」を構成したと考えるほうが,
曲輪の一つを「本丸」と考えるより合理的だと思います.

秀吉大坂城本丸も奥向御殿のある曲輪,表向御殿のある曲輪,
山里曲輪,米倉のある曲輪,帯曲輪から構成されており,
安土城本丸も複数の曲輪から構成されていたとしてもおかしくないでしょう.



次に「二の丸」について説明します.

読売新聞『安土城 信長の夢』第19回「庭園はどこに」から引用します.

「フロイスは,安土城の天主とそれを取り囲む殿舎群の描写に続いて,
「多種の灌木(かんぼく)がある庭園の美しさと新鮮な緑,
その中の高く評価されるべき自然のままの岩塊(がんかい),
魚のため,また鳥のための池……」と記しています.」

「まさに天主近くに庭園が存在したことを示しています.」

「『信長公記』一五八一年四月十日の記事により,
フロイスの見た庭園が二の丸にあった可能性を推定できます.」

「この日,信長は竹生島参詣に出かけますが,
彼が途中で一泊するものと考えた女房たちは,二の丸に出かけ,
あるいは桑実寺(くわのみでら)に参詣して,鬼のいぬ間の息抜きをします.
(この後,思いがけず日帰りした信長によって,
女房や坊主たちは皆殺しとなります.)
このことから,二の丸は日常生活から解放された場所−
庭園であったと考えることができます.」

この推論が正しいとすると,二の丸には,池のある庭園があることになります.
庭園に面して建物もあったでしょうから,
二の丸は,安土城内の曲輪としては,
かなり大きかったと考えるべきでしょう.
ここでは,この仮説が正しいとして,二の丸の位置を考えます.

面積と水源を考えると,
現在の「伝二の丸」に池のある庭園があったとは考えられないので,
「伝二の丸」は二の丸ではないと思います.

同様の理由で「八角平」も二の丸ではなく,
さらに,安土山中の他の場所にもそのような場所はないと思います.

安土山中にそのような場所がないとすれば,
他の戦国大名の居城や居館の多くと同様に,
庭園は平地か安土山の山すそにあったことになります.


七曲道は安土山の麓から安土城の「伝黒金門」につなぐ,
信長専用の道であるという説があります.
この説が正しいとすると,現在遺構は残っていませんが,
七曲道の起点となる山の麓(以下「七曲口」)も,
大手口と同様に石垣と櫓門で守られていたでしょう.

私は,この七曲口に二の丸があったと推測します.(図参照)
安土山の地図と七曲道の機能から考えて,
二の丸に池のある庭園があったとすれば,
山頂の本丸と直接つながっている,
七曲口以外に二の丸はありえないと思います.

岐阜城でも山の麓の館に池のある庭園が造られていますから,
池のある庭園,つまり二の丸が,安土山中ではなく,
この場所にあったと考えるのはおかしくないでしょう.

中心部分(本丸)炎上後も,
安土城には信長の二男信雄や三男信孝,
信忠の遺児三法師が入城しています.
彼らが入城したのは二の丸だったと思います.


そして,もしかしたら,天主・本丸御殿が完成するまでの信長の居館は,
この二の丸だったかもしれません.