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タイトル安土城の構造 その一
記事No: 169 [関連記事]
投稿日: 2003/02/11(Tue) 09:10
投稿者森嶋

安土城の天主を推定復元したり,安土城についていろいろ考えているうちに,
安土城に行きたくなり,安土城に行きました.
安土城に行って考えたことをまとめておきます.



敵に攻められた場合,信長は安土城ではなく,
日本有数の山城である,隣の観音寺山城で篭城するつもりだっただろうとよく言われます.
私もそうだったと思います.

秀吉大坂城や徳川江戸城などには,
「戦時の要塞」と「武装化された邸宅」という二つの機能があります.
ちょうど安土城の天主と秀吉大坂城以降の天守が,
外観は同様であっても全く異なる機能をもつ建物であったように,
安土城は「戦時の要塞」の機能をもたない「武装化された邸宅」だったと考えます.

秀吉大坂城などと同様の機能をもつ城であったと考えるから,
主要登城ルートに総見寺があること,大手に複数の門があること,
直線的な大手道の存在は,「常識では考えられない」ということになりますが,
京都の二条城のような「武装化された邸宅」であったと考えれば,
これらは不思議ではないと思います.

安土城の近くの彦根城は山の上に要塞,山の麓に御殿・庭園があります.
観音寺山城は彦根城の要塞部分,安土城は彦根城の御殿にあたると思います.
つまり,安土山の城だけで「安土城」は完結しているのではなく,
観音寺山城の存在も考慮しなくては,「安土城」を理解できないでしょう.


発掘調査の結果,大手道は黒金門ではなく本丸南門につながることは周知のとおりです.
大手道は天皇が行幸してきたときなどに使われる特別な道だったと考えられています.

行ったことがある人は解ると思いますが,
邸の間を通るときはそうでもないのに,
両側に邸がなくなるあたりから,急激に階段が昇りにくくなります.
あまりに昇りにくいので,現在,補助段が加えられています.
これは,大手道が日常使用されていないことを示していると思います.
つまり,日常,大手道から登城できないようにわざと昇り難くしているのだと思います.
そして,天皇の行幸が決まり実際に使用されるときになって,
この階段を昇りやすく改造するつもりだったと考えます.

総見寺ルートは黒金門につながると一般に考えられていますが,
信長記,フロイスの記録などに黒金門の記述はないことから,
総見寺ルートは大手道と合流して本丸南門につながっていたのではないかという説があります.

つまり,本丸の南門は,天皇が行幸したとき等,特別な場合だけに使われる門ではなく,
日常使用されていたと考えるのです.

現在,大手道・総見寺ルート>黒金門>本丸>天主取付台>天主台
の順で山の麓から天主に行きます.
しかし,この説によると,信長時代と全く異なることになります.


「空前絶後」という表現がありますが,
安土城の御殿群の構造は,まさに「空前絶後」というべきものだったと思います.
安土城では各曲輪ごとに殿舎を建て,
それらを連結して一つの御殿を構成したと考えます.

具体的には,
三の丸御殿:玄関,遠侍,(式台)
本丸御殿:行幸御殿(御成御殿)
天主:常御所,対面所,会所

信長時代,天主への来客は,
大手道・総見寺ルート
>本丸南門
>三の丸御殿
>櫓門(渡り廊下)
>天主取付台の建物
>天主
の順で天主に行ったと私は推測します.

本丸御殿と天主取付台の位置関係から,
現在のように本丸の地面から天主取付台に行くのは通常のルートではなかったはずです.
また,本丸御殿に上がって天主取付台の建物に行くのは,
行幸御殿である本丸御殿を玄関として使うことになるのですから,
これはおかしいと思います.
つまり,本丸は日常人々が入らない閉鎖的な場所だったと思います.
これは,本丸御殿が行幸御殿であるという性格を考えると当然でしょう.

そうすると,三の丸御殿が安土城の御殿群の玄関,遠侍だったと推測できます.

そして,天主取付台の建物の少なくとも一部は二階建になっていて,
その部分と天主一階は通路でつながっていたと考えます.