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タイトル安土城天主二階推定平面図
記事No: 117 [関連記事]
投稿日: 2002/12/31(Tue) 10:08
投稿者森嶋

安土城天主二階推定平面図 画像サイズ: 403×375 (25kB) 1 十二畳敷御絵有 花鳥の間と申也
2 別ニ一段四畳敷 御座之間有 同花鳥之御絵有
3 次南八畳敷 賢人間 へうたんより駒の出たる所有

4 東 麝香の間 八畳敷
5 十二畳 御門之上
6 次八畳敷 ろとうびんと申仙人杖なけ捨たる所
7 北廿畳敷 駒之牧之御絵有 絵のふりたる所是ふゑつの図と申
8 次十二畳敷 せい王母の御絵有

西 御絵ハなし
9 御縁二段ひろ縁なり
10 廿四畳敷 物置の御なんと有
11 口ニ八てう敷之御座敷在之


天主二階の復元図の構造について調べたところ,
構造的問題は一応ないと判断したので,
この掲示板に発表します.
みなさんの率直な意見をいただきたいです.

私は天主二階は一階と同じ大きさであったと考えます.
角柱は天主一階の同じところにも柱があることを,
大きな丸柱は一階の同じところに柱がないことを意味します.

狭間戸の数は,
土蔵は入母屋屋根になっていたと考えますので北は5個,
東は8個,南は9個,
そして,西は障子と舞良戸で狭間戸はないので,
合計は22個です.

室内では壁,障子,襖,舞良戸を特定することはしていません.

部屋の機能について説明します.

2,1,3は対面所で1と3の間には襖があったでしょう.
2に信長が座り,信長と対面する人間は3に座ったと思います.

徳川時代の対面所・書院などの間取は,
「バカの一つ覚え」と言いたくなるほど,
田の字型で完全に定型化されていますが,
秀吉の大坂城本丸の指図によると,
本丸御殿の対面所・書院の間取は定型化されておらず,
この時代の部屋の間取は完全に自由であったことが解ります.
それ故,一階と二階で対面座敷の間取が違ったり,
このような対面所の形式があってもおかしくないと思います.

5は二階を警備する武士の詰所,
6,7,8は
信長と対面する人間の控え室,
あるいは天主内における重臣・信長配下の武将の詰所だと考えます.

4も6,7,8と同様の機能であったかもしれませんが,
私は,式台あるいは勅使の間など別の機能だったと考えます.
宮上説はこの部屋も対面所の一室に含めているようですが,
採光を考えると,このような間取にならざるをえないと思います.

9は「二段の広縁」の下段でバルコニーのようになっていたと思います.

10は納戸です.

11「 口ニ八てう敷之御座敷在之」の「口」とは
何を意味するのは解りませんが,
「納戸の出入口」と解釈しておきます.
11は対面の儀式における信長の控え室,
日常では信長が眺望を楽しむための部屋だったと思います.


タイトルRe: 安土城天主二階推定平面図
記事No: 118 [関連記事]
投稿日: 2002/12/31(Tue) 11:28
投稿者

ええっと、ではいくつか質問させてください。

1 1階にも増して幅1間が1箇所、幅2間の通路が2箇所あり、
 しかも後者には真ん中に柱が林立しています。これはもう
 史料よりも、「12間四方」というこの階においては特に根拠のない
 前提へ考察が引きずられてはいませんか。

2 広縁というのは幅1間の縁側を指すと何かで読んだ気がするんです
 けども、西側に設定された幅2間の縁側というのは、これは縁側では
 なく、ある意味もう部屋じゃないですか?。

3 規範にされたという駿府城天守において外周縁側はあくまで本体
 構造の付加物と解釈されているような気がしますが、この復元案では、
 「バルコニー」を含めた外周縁側は本体構造と一具のものと理解
 していいですか。またこれは感覚的なものではありますが、「バルコ
 ニー」へ1間毎にぶっとい柱が林立するというのは少々違和感があります。

4 「絵のふりたる所」「ふゑつの図」の解釈について、以前拝見
 したような気もしますが、図に即して今一度ご教示いただければと
 思います。


タイトルRe: 安土城天主二階推定平面図
記事No: 122 [関連記事]
投稿日: 2003/01/03(Fri) 23:30
投稿者森嶋

Re: 安土城天主二階推定平面図 画像サイズ: 570×530 (34kB) あけましておめでとうございます.
勘違いから柱の本数が少し多くなっていました.
二階の図の改訂版を示しておきます.


> 1 1階にも増して幅1間が1箇所、幅2間の通路が2箇所あり、
>  しかも後者には真ん中に柱が林立しています。これはもう
>  史料よりも、「12間四方」というこの階においては特に根拠のない
>  前提へ考察が引きずられてはいませんか。

故宮上氏の天主復元案では,
一階の大きさは十二間×十一間,
二階の大きさは十間×十間,
三階の大きさは十間×八間です.
この逓減の仕方はおかしいと思います.

「十二間」を十二畳敷でないと解釈すると,
三階の部屋から三階は東西十間であることは間違いないでしょう.
一階は東西十二間ですから,
二階は東西十二間か十間が妥当でしょう.
故宮上氏の復元図では階段室の採光を考慮していませんから,
これを考慮すると,二階は一階と同じく東西十二間となります.

また,金碧障壁画が傷むことを考えると,
金碧障壁画のある座敷に狭間戸があるのはおかしいと思います.
構造的にやむをえない場合を除いて,
できるだけ(狭間戸がある)廊下が座敷の周囲にあるという
通常の御殿の形式にしたはずです.
そうすると二階は一階と同じく十二間×十二間になります.



> 2 広縁というのは幅1間の縁側を指すと何かで読んだ気がするんです
>  けども、西側に設定された幅2間の縁側というのは、これは縁側では
>  なく、ある意味もう部屋じゃないですか?。

当時の建物,というより,現在でも十二間四方の建物であれば,
二間の縁側はおかしくありません.



> 3 規範にされたという駿府城天守において外周縁側はあくまで本体
>  構造の付加物と解釈されているような気がしますが、この復元案では、
>  「バルコニー」を含めた外周縁側は本体構造と一具のものと理解
>  していいですか。またこれは感覚的なものではありますが、「バルコ
>  ニー」へ1間毎にぶっとい柱が林立するというのは少々違和感があります。

駿府城の天守と安土城の天主の関係について
以前は言いすぎたと思います.
ただ,天主に座敷を設けて御殿として使う場合,
その外部との仕切に舞良戸と障子を使うほうが
採光の点で優れているでしょう.
そして,その実例として駿府城の天守をあげることができるでしょう.

私の復元案では「「バルコニー」を含めた外周縁側は
本体構造と一具のもの」と考えています.
私も「「バルコニー」へ1間毎にぶっとい柱が林立するというのは
少々違和感があり」ますが,構造的にやむをえないと思います.



> 4 「絵のふりたる所」「ふゑつの図」の解釈について、以前拝見
>  したような気もしますが、図に即して今一度ご教示いただければと
>  思います。

私が村井貞勝の記録が「公式記録」ではなく
個人的覚書きにすぎないと考える一つの理由は,
「 口ニ八てう敷之御座敷在之」とか「絵のふりたる所」とか,
記録を書いた本人でなければ
何を言っているのかよく解らない表現があるということです.

「絵のふりたる所」「ふゑつの図」について
特に論じることはありません.


タイトルRe: 安土城天主二階推定平面図
記事No: 123 [関連記事]
投稿日: 2003/01/04(Sat) 10:56
投稿者

こちらこそあけましておめでとうございます.

> 「十二間」を十二畳敷でないと解釈すると,
> 三階の部屋から三階は東西十間であることは間違いないでしょう.

というのは?なんですが。考えようでは南北10間、東西8間という
復元平面も得られますけど。「小屋の段」の南北の破風という記事や
ウインゲのスケッチを勘案すれば、宮上説とは異なり、棟が南北向で
あり、併せて平面の長辺が南北方向である方が蓋然性は高いと個人的に
は思います。

> また,金碧障壁画が傷むことを考えると,
> 金碧障壁画のある座敷に狭間戸があるのはおかしいと思います.
> 構造的にやむをえない場合を除いて,
> できるだけ(狭間戸がある)廊下が座敷の周囲にあるという
> 通常の御殿の形式にしたはずです.

では二条城の御殿などの建築は障子を開け放てませんし、
日光東照宮や中尊寺金色堂ははなからありえない建築と
いうことですか?。最前からのご意見ですと、構造的に
やむを得ないのならば障壁画がある座敷に狭間戸があっても
それはしようがないということにもなりますね。

2、3については異論もありますが考えておられることは分りました。

> 私が村井貞勝の記録が「公式記録」ではなく
> 個人的覚書きにすぎないと考える一つの理由は,
> 「 口ニ八てう敷之御座敷在之」とか「絵のふりたる所」とか,
> 記録を書いた本人でなければ
> 何を言っているのかよく解らない表現があるということです.

安土城天主復元にあたっては、公式でも私的でも別に作業に問題
ないですから、あまり深くは考えておりません(t.mさんのように
思想的なこととか考えるのであれば別ですけど)。そもそも公式記録に
しろ私的な記録にしろ、当時の記録は簡潔なものが多く、また当時
当たり前のことであった事柄、また当事者同士で理解できる事柄は
簡略化されるなど当然のこととして行われていたのですから、この
天主の記事も特別それを逸脱するものではないと感じています。
ましてや復元にこの記録の一言一句を重視しなければ替りのものは
何もないのです。ですから、

> 「絵のふりたる所」「ふゑつの図」について
> 特に論じることはありません.

というのは残念なことで、先の「口」もそうですがおそらくこれら部屋、
ひいては建物自体の平面構成を規定するかも知れないこうした記述を
等閑にしてはどうかとも思います。この上階にも「西二間」というのが
ありますよね。

さて、最後に柱数についてなのですが、下2階で平面延べ200本を
超えているのではないかと思います。おそらく通し柱を想定されて
おられるものと思いますが、それでも大丈夫でしょうか:。


タイトルRe: 安土城天主二階推定平面図
記事No: 136 [関連記事]
投稿日: 2003/01/11(Sat) 08:10
投稿者森嶋



> > 「十二間」を十二畳敷でないと解釈すると,
> > 三階の部屋から三階は東西十間であることは間違いないでしょう.
>
> というのは?なんですが。考えようでは南北10間、東西8間という
> 復元平面も得られますけど。

私の議論では南北十間でも同じ結論になると思いますが(笑)



> > また,金碧障壁画が傷むことを考えると,
> > 金碧障壁画のある座敷に狭間戸があるのはおかしいと思います.
> > 構造的にやむをえない場合を除いて,
> > できるだけ(狭間戸がある)廊下が座敷の周囲にあるという
> > 通常の御殿の形式にしたはずです.
>
> では二条城の御殿などの建築は障子を開け放てませんし、
> 日光東照宮や中尊寺金色堂ははなからありえない建築と
> いうことですか?。最前からのご意見ですと、構造的に
> やむを得ないのならば障壁画がある座敷に狭間戸があっても
> それはしようがないということにもなりますね。

二条城の二の丸御殿で障子を開け放ったとしても,
座敷の周囲に廊下があるので,
直射日光が障壁画にあたることもまずないでしょうし,
風雨が強くても,雨のしぶきが障壁画にあたることもまずないでしょう.
また,西日でも廊下・座敷の障子を閉めれば,
日光の影響はほとんどなくなるでしょう.

住宅建築でない日光東照宮や中尊寺金色堂が
どうして関係あるのか理解に苦しみます(笑)
そもそも中尊寺金色堂に金碧障壁画があるのでしょうか(笑)

「構造的にやむを得ないのならば障壁画がある座敷に狭間戸があっても
それはしようがない」と思います.
私も三階には,そのような座敷があったと考えています.
「原則は尊重しなければならないが,例外もある」ということです.



> 安土城天主復元にあたっては、公式でも私的でも別に作業に問題
> ないですから、あまり深くは考えておりません。

こういう態度は絶対に間違っていると思います.
いくら「素人の遊び」でも,
まず復元に使用する資料がどの程度信頼できるのか,
に関する考察から出発すべきです.
「誰がどういう条件の下で記録したのか」という考察は,
他人に読んでもらうつもりであれば,
必ずしなければならないことだと思います.


「公式」記録であれば,
記録が実在の建物と異なる可能性はほとんどないと考えることができますが,
「私的」記録であれば,
記録者の誤解・書き忘れ・情報不足等が原因で,
記録が実在の建物と異なる可能性があります.

安土城天主に関する記述だけでなく,牛一の『信長記』全体の記述でも,
古い写本ほど(牛一による誇張・偽造などの改竄がなく)記録として信頼できる,
ということは定説のようです.
それ故,所謂『安土日記』,
特にその本文の記述が現時点において信頼できる,
最も重要な文献資料であることは間違いありません.

しかし,以前にもこの掲示板で書きましたが,
建築の「公式記録」として最も適切なのは図面です.
『安土日記』の基になった資料は,
村井貞勝が天主の図面を見ながら書いた個人的覚書にすぎないというのが私の解釈であり,
安土城天主の姿を伝えるには情報量が少なすぎる不完全な記録であると考えます.
これは別の機会にもう一度論じたいと考えています.



> そもそも公式記録にしろ私的な記録にしろ、
> 当時の記録は簡潔なものが多く、また当時
> 当たり前のことであった事柄、また当事者同士で理解できる事柄は
> 簡略化されるなど当然のこととして行われていたのですから、この
> 天主の記事も特別それを逸脱するものではないと感じています。

「簡潔」というのは,「情報を伝えるのに無駄な言葉を使わず,
必要最小限の言葉だけを使う」ことでしょう.
しかし,『安土日記』の記録は,
「簡潔」というより,簡単すぎて情報を(正確に)伝えるのに
成功していない部分があります.



> ましてや復元にこの記録の一言一句を重視しなければ替りのものは
> 何もないのです。

これも完全に誤りで,『安土日記』の記述だけでなく
他の情報(宣教師の記録,発掘調査の結果,
当時の建築様式に関する研究等)と総合して復元すべきであり,
『安土日記』の記述と他の情報が矛盾するのであれば,
どちらが正しいのか,という考察も絶対に必要でしょう.



> > 「絵のふりたる所」「ふゑつの図」について
> > 特に論じることはありません.
>
> というのは残念なことで、先の「口」もそうですがおそらくこれら部屋、
> ひいては建物自体の平面構成を規定するかも知れないこうした記述を
> 等閑にしてはどうかとも思います。この上階にも「西二間」というのが
> ありますよね。

「 口ニ八てう敷之御座敷在之」は,
「部屋,ひいては建物自体の平面構成を規定するかもしれない」と思いますが,
「絵のふりたる所」「ふゑつの図」は,そういう可能性はないと思うので,
復元するとき特に気にしていません.
これは内藤氏,故宮上氏の復元においても同様のようです.

また「西二間」の解釈は簡単だと思います.
これは,「御鷹の間」の間との境にある襖に絵が描かれていたと解釈します.



> さて、最後に柱数についてなのですが、下2階で平面延べ200本を
> 超えているのではないかと思います。おそらく通し柱を想定されて
> おられるものと思いますが、それでも大丈夫でしょうか:。

どの柱が通柱かというのは,
実際に建築した人間でないと解らないことですから,
柱の総数を気にしながら復元する必要はないと思います.

また,柱数の関する記述は,淳也さんのHPによると,
本文ではなく行間の追記のようですから,
信憑性が低い,あるいは,ほとんどないと思います.


タイトルRe: 安土城天主二階推定平面図
記事No: 143 [関連記事]
投稿日: 2003/01/11(Sat) 11:32
投稿者

どうもご回答ありがとうございます。

> 私の議論では南北十間でも同じ結論になると思いますが(笑)

私の書いているのは身舎だけの話ではなく、全体で南北十間、東西
八間なんですけど。ですから同じではなく、また「東西十間」或いは
「南北十間」が「確か」なんて断定は貴方の論拠ではできませんね。

> 二条城の二の丸御殿で障子を開け放ったとしても,
> 座敷の周囲に廊下があるので,
> 直射日光が障壁画にあたることもまずないでしょうし,
> 風雨が強くても,雨のしぶきが障壁画にあたることもまずないでしょう.
> また,西日でも廊下・座敷の障子を閉めれば,
> 日光の影響はほとんどなくなるでしょう.

城郭建築にしても狭間戸の内側に障子があれば多分問題ないですね。
そういう設えは現存建築でも結構あっような気がしますが。
軒の設計も住環境へそれなりに配意したものかもしれませんし。
ちなみに下記HPでは、軒の長い城郭建築の事例、軒裏の反射光に
よる採光という事について言及されており、興味深いです。
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/chikujyo/chiku26.html
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/chikujyo/chiku27.html

> 住宅建築でない日光東照宮や中尊寺金色堂が
> どうして関係あるのか理解に苦しみます(笑)
> そもそも中尊寺金色堂に金碧障壁画があるのでしょうか(笑)

これらは外観にすら金箔や漆・彩色を利用するような、それこそ
風雨に浸食されるような素材をふんだんに利用している事例と
して掲げました。理解に苦しんでいただければ結構ですが、
自説の補強への「ありえない」式の論証はいかがなものですかね。
森島さんも書かれておられますように、

> 「原則は尊重しなければならないが,例外もある」

ということです。

> > 安土城天主復元にあたっては、公式でも私的でも別に作業に問題
> > ないですから、あまり深くは考えておりません。
>
> こういう態度は絶対に間違っていると思います.

間違ってますか(笑)。何故「公式」「私的」にこだわるのか不思議
だったのですが、森島さんの「公式」=ほとんど間違いない、
「私的」=間違いがある可能性がある、との表明に、大分腑に落ちた
気がします。しかしそんな類型的な差別ができうるのか疑問ですよ。
そもそも「安土日記」記載の「天主次第」(仮)自体、「安土日記」
自体の記事などから、村井貞勝が拝見時にまとめたものではないか、
という程度しか推測しえないものです。ですから前文ではこれ以上、
推測の屋上屋を重ねるのは私個人は「不毛」であるから深く考えて
いないし考えられない、との意味であのように申し上げています。

> 『安土日記』の基になった資料は,
> 村井貞勝が天主の図面を見ながら書いた個人的覚書にすぎないというのが私の解釈であり,
> 安土城天主の姿を伝えるには情報量が少なすぎる不完全な記録であると考えます.
> これは別の機会にもう一度論じたいと考えています.

貞勝が図面を披見したといった話や史料はついぞや見聞したことが
ありませんが、ないものをどのように論証しうるのか、ぜひとも論証
お待ちしています。

> 「簡潔」というのは,「情報を伝えるのに無駄な言葉を使わず,
> 必要最小限の言葉だけを使う」ことでしょう.
> しかし,『安土日記』の記録は,
> 「簡潔」というより,簡単すぎて情報を(正確に)伝えるのに
> 成功していない部分があります.

現代の辞書から引いてきたのかもしれませんが、「簡潔」の意味を
意識的に限定して話を逸らすのはご容赦ください。また、何を基礎に
「情報を正確に伝えるのに成功している」というのでしょうか。

> これも完全に誤りで,『安土日記』の記述だけでなく
> 他の情報(宣教師の記録,発掘調査の結果,
> 当時の建築様式に関する研究等)と総合して復元すべきであり,
> 『安土日記』の記述と他の情報が矛盾するのであれば,
> どちらが正しいのか,という考察も絶対に必要でしょう.

あのう、宣教師の記録は部屋の構成はまったく不明、発掘調査は
地階の構造から一階の基礎平面の最小平面が分かることは評価
しても、具体的には石垣上端が崩落して把握不能、当時の建築
様式に関する研究は一般論としては参照するべきではあるが、
これがそのまま安土城の天主復元について「安土日記」以上に
規定するものかどうかといえば何とも言えません。
あくまで一般論なのですから。従いまして、

>ましてや復元にこの記録の一言一句を重視しなければ替りのものは
>何もないのです。

というのは「完全に間違い」ではありません。反対にお尋ねしますが、
「安土日記」以外に天主の上階構造、特に部屋割りについて規定しうる
ものがありますか?。「日記」の記事を一般論で曲げたり操作するのは
至極簡単なことですが、まずは史料の「一言一句を重視」するべき
であることは論を待ちません。貴方も

>特にその本文の記述が現時点において信頼できる,
>最も重要な文献資料であることは間違いありません.

と言っておられるのですし。

> 「 口ニ八てう敷之御座敷在之」は,
> 「部屋,ひいては建物自体の平面構成を規定するかもしれない」と思いますが,
> 「絵のふりたる所」「ふゑつの図」は,そういう可能性はないと思うので,
> 復元するとき特に気にしていません.
> これは内藤氏,故宮上氏の復元においても同様のようです.

「そういう可能性はないと思う」の根拠は?。単に感想だけで
「復元するとき特に気にしていません」というのは、
「いくら「素人の遊び」でも」(<これはどう思われてのご発言で
しょうね。自己謙遜ならともかく、他者に対して言うのは失礼も
甚だしいことです。あえてお返しいたしましょう)納得しうるもの
ではありません。

> また「西二間」の解釈は簡単だと思います.
> これは,「御鷹の間」の間との境にある襖に絵が描かれていたと解釈します.

この件は復元図を拝見してご意見がよく分かりました。

> また,柱数の関する記述は,淳也さんのHPによると,
> 本文ではなく行間の追記のようですから,
> 信憑性が低い,あるいは,ほとんどないと思います.

「日記」の該当頁はかなり容易に写真図版で確認することができます。
「いくら「素人の遊び」でも」「他人に読んでもらうつもりであれば,
必ずしなければならないことだと思います.」。確認もしないで
「信憑性が低い,あるいは,ほとんどないと思います」というのは
いかがでしょうか。


タイトル森さんへの御返事 その一
記事No: 148 [関連記事]
投稿日: 2003/01/13(Mon) 08:55
投稿者森嶋

森さんへの御返事が長くなりましたので,
読みやすくするため,二つに分けます.


> 私の書いているのは身舎だけの話ではなく、全体で南北十間、東西
> 八間なんですけど。

私もそのつもりですが(笑)

> > 住宅建築でない日光東照宮や中尊寺金色堂が
> > どうして関係あるのか理解に苦しみます(笑)
> > そもそも中尊寺金色堂に金碧障壁画があるのでしょうか(笑)
>
> これらは外観にすら金箔や漆・彩色を利用するような、それこそ
> 風雨に浸食されるような素材をふんだんに利用している事例と
> して掲げました。

外部の装飾と金碧障壁画の傷み易さを同列に扱うのはどうかと思いますが(笑)

> > > 安土城天主復元にあたっては、公式でも私的でも別に作業に問題
> > > ないですから、あまり深くは考えておりません。
> >
> > こういう態度は絶対に間違っていると思います.
>
> 間違ってますか(笑)。何故「公式」「私的」にこだわるのか不思議
> だったのですが、森島さんの「公式」=ほとんど間違いない、
> 「私的」=間違いがある可能性がある、との表明に、大分腑に落ちた
> 気がします。しかしそんな類型的な差別ができうるのか疑問ですよ。

「そんな類型的な差別ができ」ないと考えるのは,私には信じられません.



> そもそも「安土日記」記載の「天主次第」(仮)自体、「安土日記」
> 自体の記事などから、村井貞勝が拝見時にまとめたものではないか、
> という程度しか推測しえないものです。ですから前文ではこれ以上、
> 推測の屋上屋を重ねるのは私個人は「不毛」であるから深く考えて
> いないし考えられない、との意味であのように申し上げています。

森さんの考えでは,『安土日記』の基になった資料は
「村井貞勝が拝見時にまとめたものではないか、という程度しか推測しえないもの」ということですが,
内容から考えて,本当にその推測が成立つのかを私は疑問にしているわけです.

この掲示板で森さんは「文献・史料にない」という表現をされてきましたが,
その文献・史料がどのようなものかを考えないというのは,
森さんもおかしいと思いませんか.

「『安土日記』という文献があり,他の人もそれを使って復元しているから,
その文献は絶対に正しいだろう.私もそれを使って復元してみよう.」というのが,
森さんの方法論のように思います.

結論が正しいか間違っているかは別にして,
内藤氏,故宮上氏はまず推定復元の基になる資料批判から分析をはじめています.
(内藤氏の「天守指図」は安土城天主の指図の写しであるという結論,
故宮上氏の村井貞勝の記録は安土城の公式記録であるという結論を
私は間違っていると思います.)
資料から推定復元をするのであれば,結論が正しいか間違っているかは別にして,
このような考察は絶対に必要でしょう.
このような考察なしに資料を絶対視し,推定復元するのはおかしいと思います.



> > 『安土日記』の基になった資料は,
> > 村井貞勝が天主の図面を見ながら書いた個人的覚書にすぎないというのが
> > 私の解釈であり,
> > 安土城天主の姿を伝えるには情報量が少なすぎる不完全な記録であると考えます.
> > これは別の機会にもう一度論じたいと考えています.
>
> 貞勝が図面を披見したといった話や史料はついぞや見聞したことが
> ありませんが、ないものをどのように論証しうるのか、ぜひとも論証
> お待ちしています。

故宮上氏は「村井貞勝の記録」は「公式記録」であると考え推定復元されていますが,
「村井貞勝の記録」が「公式記録」である,という史料はなく,
故宮上氏の推定にすぎません.
(同様に,森さんの復元方法の基礎と考えられる,
「『安土日記』に推定復元に必要な全ての情報がある」,
ということを証明する史料もないはずです.)

故宮上氏は,「安土日記」の文中に個人的感想のようなものがなく,
記載が整然としていて,障壁画の画題,
狭間戸の数といった天主内を簡単に一見しただけでは記せないものがあること,
足利義政の東山殿について書かれた相阿弥の「御飾記」と
「安土日記」の文の様式が似ていることから,
原文は村井貞勝が書いた天主の公式記録であると断定できるとしています.

しかし,安土城を設計した人物,建設を総指揮した人物が書いた図面・文書であれば,
公式記録であるという解釈は正しいでしょうが,
安土城の建設に関係がなく,
しかも建築の専門家でない武士に「公式記録」を残させるでしょうか.

五階・六階を除いて各階の大きさに関する記述がない,
御殿につながる廊下の存在を記していない等,
記録の全体的な情報の少なさから考えて,
故宮上氏が考えるような「公式」記録ではないと私は考えます.

また,「御飾記」とは文字通り,押板(床)・飾り棚・書院の飾り,
室内に飾られた絵画,調度品という室内装飾について,
この分野の専門家である相阿弥が解説した文書であり,
建物の記録を目的としているのではありません.
したがって,比較の対象として不適当です.

そして,村井貞勝が拝見した部分は限られていると推測されるので,
村井貞勝の記録は拝見した時の覚書に基づいて書かれていないと考えます.

村井貞勝は拝見した時点では,信長は天主に住んでいないのですから,
各部屋には調度品,衣類,食器などはなかったはずです.
何もない納戸を幾つも案内するのはおかしいと思います.

フロイスの記録には,五階・六階について外観は記されていても,
内装,そこからの眺めについては記されていません.
これは,秀吉大坂城天守に関するフロイスの記録とは大きく異なります.
したがって,フロイスは安土城の五階・六階を案内されなかったと考えられます.

信長は,天皇に所望された屏風を欧州に送るようにと宣教師に渡していますし,
岐阜城においても家臣には見せないような部分にもフロイスを案内しています.
これらから信長は宣教師・フロイスを重要人物として扱っていることが解ります.

フロイスでさえ案内されなかった五階・六階を
一家臣にすぎない村井貞勝が案内されたとは考えにくいです.

村井貞勝が拝見した部屋は一階から三階の障壁画がある部屋が中心で,
天主の全ての部屋を拝見していないと考えます.


また,拝見した時に障壁画の画題とともに
各部屋の機能についても説明されたでしょうから,
『安土日記』が拝見時の覚書に基づいて書かれているのであれば,
この部屋は茶室であるとか,
この部屋は天皇が行幸してきたときの天皇の御座であるとか,
この部屋は「舞の十二間」であるとか,
各部屋の機能に関する記述があるはずです.
このような記述がないので,
村井貞勝の記録は拝見した時の覚書ではなく,
別の資料に基づいて書かれていると考えます.

フロイスや大友宗麟の秀吉大坂城の拝見記は,全体像は解らないにしても,
拝見した部分については生き生きとした描写になっていて,
実際に拝見したのでなければ書けないような内容です.

はっきり言って,『安土日記』の内容であれば,実際に天主を拝見しなくても,
天主の図面を見ながらでも書けるでしょうし,
実際に天主の図面を見ながら書いたのでしょう.

村井貞勝は信長の家臣団でかなり高い地位にある人物であり,
最高機密である天主の図面を特別に見ることができたはずです.

天主に入ることのできた人間はかなり限られていたでしょう.
そして,天主の図面を見ることのできる人間はさらに少なかったはずです.

天主の内部に関する情報として,
村井貞勝の個人的な記録は有名であり,
天主に入ることのできない家臣の間で広く読まれていたのではないでしょうか.

このように考えると,
村井貞勝の記録が,個人の印象にしては詳しすぎるが,
公式記録にしては情報が少なすぎるという,
中途半端な理由も説明できるのではないでしょうか.

村井貞勝の記録は,村井貞勝が天主を拝見した後で,
天主の図面を見ながら書いた個人的な覚書だと私は考えます.


タイトル森さんへの御返事 その一への返事
記事No: 150 [関連記事]
投稿日: 2003/01/13(Mon) 12:28
投稿者

長文にわたるご返事、痛み入ります。

> > 私の書いているのは身舎だけの話ではなく、全体で南北十間、東西
> > 八間なんですけど。
>
> 私もそのつもりですが(笑)

なら、貴方が「確か」と断言する東西南北十二間四方という規模も
「確か」と書けるような前提ではなさそうですね。他でも説明できるの
でしたら。

> 外部の装飾と金碧障壁画の傷み易さを同列に扱うのはどうかと思いますが(笑)

双方所詮は権門の消耗材っちゅうことですよ。当時の評価としたら流行
絵師による新作アート(?)の範囲を出えるものではないんですから、痛
んだり、絵が古くなればその時の信長の好みで補修・交換・新調すれば
いいだけの話です。

> 森さんの考えでは,『安土日記』の基になった資料は
> 「村井貞勝が拝見時にまとめたものではないか、という程度しか推測しえないもの」ということですが,
> 内容から考えて,本当にその推測が成立つのかを私は疑問にしているわけです.

「村井貞勝が拝見時にまとめたものではないか」という推測は成り立っ
てるでしょうに。以下の貴方の論旨からすると、どうも「拝見時」とい
う言葉を、貞勝が拝見しながらメモをとったことに勝手に限定しておら
れるようにや窺えますが、当方の言わんとするのは、拝見途中の筆記から
一般の日記のごとく帰宅してのまとめまで、それこそ貴方の言わんとする
他史料の参照までを内包した「時」ですよ(普通そうでしょ?)。ただ、
それ以上の貞勝の成書事情については史料上明らかにしえないのです
し、そもそも貞勝を筆者とすること自体も「推測」に過ぎないものです。
この上「貞勝が拝見後に図面を見て書いた」という推測の上で推測したことを根拠に推測するという蛇足を行うことが、史料の性格を見極める
ことになっているのかははなはだ疑問です。ですから、大枠として
「「公式」「私的」にかかわらず「村井貞勝が拝見時にまとめたもの
ではないか」」という程度にとどめておくのが学問的にはよろしいん
じゃないですか。

> 「『安土日記』という文献があり,他の人もそれを使って復元しているから,
> その文献は絶対に正しいだろう.私もそれを使って復元してみよう.」というのが,
> 森さんの方法論のように思います.

しかしまあ、よくもこうした人の方法論を勝手に創造できるものですねえ。文献史学のイロハは貴方に指摘いただかなくても承知のことです。

> 内藤氏,故宮上氏はまず推定復元の基になる資料批判から分析をはじめています.
> (内藤氏の「天守指図」は安土城天主の指図の写しであるという結論,
> 故宮上氏の村井貞勝の記録は安土城の公式記録であるという結論を
> 私は間違っていると思います.)
> 資料から推定復元をするのであれば,結論が正しいか間違っているかは別にして,
> このような考察は絶対に必要でしょう.
> このような考察なしに資料を絶対視し,推定復元するのはおかしいと思います.

だから言ってるでしょ。「「公式」「私的」にかかわらず「村井貞勝が
拝見時にまとめたものではないか」」と。内藤・宮上説を踏まえての
発言ですよ。そこまで説明しなければ分りませんか?。

> (同様に,森さんの復元方法の基礎と考えられる,
> 「『安土日記』に推定復元に必要な全ての情報がある」,
> ということを証明する史料もないはずです.)

縁側や空き空間を付け加える以前に、まずは「日記」の記事に余分な
ものをなるべく付け加えることなく平面構成が行えるのかどうか、
という検証は不可欠だと思いますがね。試してみました?。

以下の貴方の論旨は、結論に至るまでにむやみに「推測される」
「なかったはず」「おかしいと思う」「考えられる」「考えにくい」
「あるはず」が頻発し、いくら説明らしいものを重ねても、貴方の
想像を超えるものではありません。厳しいようですが、学術的にも
論証にすらなっておりませんのでコメントいたしかねます。ですから

> 村井貞勝の記録は,村井貞勝が天主を拝見した後で,
> 天主の図面を見ながら書いた個人的な覚書だと私は考えます.

というのも貴方の個人的な感想として承っておきましょう。


タイトル森さんへの御返事 その二
記事No: 149 [関連記事]
投稿日: 2003/01/13(Mon) 08:59
投稿者森嶋

> > 「簡潔」というのは,「情報を伝えるのに無駄な言葉を使わず,
> > 必要最小限の言葉だけを使う」ことでしょう.
> > しかし,『安土日記』の記録は,
> > 「簡潔」というより,簡単すぎて情報を(正確に)伝えるのに
> > 成功していない部分があります.
>
> 何を基礎に「情報を正確に伝えるのに成功している」というのでしょうか。

「情報を正確に伝えるのに成功している」とは,
この記録を読んだだけで推定復元図が描け,
しかも各人が独立に復元したにもかかわらず,
各推定復元図が同じになるということです.

ある文言の解釈をめぐって各人が議論するという状況は,
文言が「簡単すぎて情報を正確に伝えるのに成功していない」
ということではないでしょうか.

例をあげると,
五階の八角の段の構造は「天守指図」・内藤説と宮上説で大きく異なります.
どちらの解釈も一長一短がありますから,
同じ文言で異なる解釈がでできた理由は,
「安土日記」の文言が簡単すぎて構造に関する情報を
正確に伝えていないからでしょう.
(五階の八角の段の構造については別の機会に詳しく論じます.)

一階から三階までと比べれば,はるかに単純な間取である五階でさえ,
異なる解釈が可能なのです.
これが「情報を正確に伝えるのに成功している」と森さんは思いますか.



> > これも完全に誤りで,『安土日記』の記述だけでなく
> > 他の情報(宣教師の記録,発掘調査の結果,
> > 当時の建築様式に関する研究等)と総合して復元すべきであり,
> > 『安土日記』の記述と他の情報が矛盾するのであれば,
> > どちらが正しいのか,という考察も絶対に必要でしょう.
>
> あのう、宣教師の記録は部屋の構成はまったく不明、発掘調査は
> 地階の構造から一階の基礎平面の最小平面が分かることは評価
> しても、具体的には石垣上端が崩落して把握不能、当時の建築
> 様式に関する研究は一般論としては参照するべきではあるが、
> これがそのまま安土城の天主復元について「安土日記」以上に
> 規定するものかどうかといえば何とも言えません。
> あくまで一般論なのですから。従いまして、
>
> >ましてや復元にこの記録の一言一句を重視しなければ替りのものは
> >何もないのです。
>
> というのは「完全に間違い」ではありません。反対にお尋ねしますが、
> 「安土日記」以外に天主の上階構造、特に部屋割りについて規定しうる
> ものがありますか?。「日記」の記事を一般論で曲げたり操作するのは
> 至極簡単なことですが、まずは史料の「一言一句を重視」するべき
> であることは論を待ちません。貴方も
>
> >特にその本文の記述が現時点において信頼できる,
> >最も重要な文献資料であることは間違いありません.
>
> と言っておられるのですし。

森さんは明言されていませんが,森さんは「『安土日記』が絶対的に正しい.
したがって,他の情報よりも最優先すべきである.」
という前提に立って議論されていると私は思います.

私が言いたいことは,
「安土日記」が公式記録でないとすれば,
当然その文言が実在の天主と異なる可能性もあるのですから,
「安土日記」の記録が無条件に正しいと考えるのではなく,
他の情報(宣教師の記録,発掘調査の結果,当時の建築様式に関する研究等)
と比較検討し総合して復元すべきであり,
『安土日記』の記述と他の情報が矛盾するのであれば,どちらが正しいのか,
という考察も絶対に必要である,という常識的な思考です.

具体例を幾つかあげましょう.

宣教師の記録から天主の六階は,
金閣と同様に全面金箔張りであったと考えられますが,
「御座敷之内皆金」「柱ハ金」「御殿主ハ悉黒漆也」という記述はあっても,
外壁が金と書かれていないことから,
故宮上氏は「安土日記」の内容を重視して
壁は金ではなく秀吉大坂城と同じく黒であったと考えているようです.

同様に五階についても,八角堂の形式と宣教師の記録から,
内藤氏の復元のように狭間戸は緑色であったと考えられますが,
『安土日記』の「狭間戸は黒漆塗りである」という記述を重視する故宮上氏は,
黒漆塗りであると考えているようです.

また,発掘調査の結果と宣教師の記録から,
天主と御殿は廊下でつながっていたことはまず間違いないと考えられています.
しかし,この廊下があるかないかは,
一階の「平面構成を規定する」ほど重要であるにもかかわらず,
この廊下について「安土日記」は全く触れていません.

他の情報を軽視し,「安土日記」の「記録の一言一句を重視」するのであれば,
「最上階の壁は金ではない」,
「青(緑)色で塗られた部分はない」,
「御殿につながる廊下はない」ということにならざるをえないでしょう.

「安土日記」の記録が不完全である以上,これを絶対視するのではなく,
他の情報と総合して復元するという方法は,現時点では最善の方法ではないでしょうか.



また,厳しいことを言うようですが,
そもそも「推測の屋上屋を重ねる」のは「不毛」であるとおっしゃるのであれば,
安土城天主を推定復元することは御止めになったほうがよろしいのではないでしょうか.

江戸城天守(家光時代)や名古屋城天守のように十分な資料が揃っているのならともかく,
この程度の資料で推定復元することは,
「推測の屋上屋を重ねる」ことなしに不可能でしょうし,
それが「不毛」だとおっしゃるのですから.

仮に「安土日記」の内容が絶対的真であったとしても,
「推測の屋上屋を重ねる」ことなしに天主の復元は不可能です.
『安土日記』には五階・六階を除いて
復元の最も基礎となる各階の大きさが書かれていません.
したがって,各階の大きさを決める必要がありますが,それは推測そのものですし,
さらに,その間取を考えることは「推測の屋上屋を重ねる」ことではありませんか.

「推測の屋上屋を重ねる」「史料・文献にない」という批判を森さんはされてきましたが,
厳密に言えば,大きさが書かれていない階については,
『安土日記』の「一言一句を重視」して「推測の屋上屋を重ねる」ことなしに
復元するという方法では絶対に復元不可能であり,
それ故,この方法に基づくのであれば復元しないことが正しい判断でしょう.



> > 「 口ニ八てう敷之御座敷在之」は,
> > 「部屋,ひいては建物自体の平面構成を規定するかもしれない」と思いますが,
> > 「絵のふりたる所」「ふゑつの図」は,そういう可能性はないと思うので,
> > 復元するとき特に気にしていません.
> > これは内藤氏,故宮上氏の復元においても同様のようです.
>
> 「そういう可能性はないと思う」の根拠は?。単に感想だけで
> 「復元するとき特に気にしていません」というのは、
> 「いくら「素人の遊び」でも」(<これはどう思われてのご発言で
> しょうね。自己謙遜ならともかく、他者に対して言うのは失礼も
> 甚だしいことです。あえてお返しいたしましょう)納得しうるもの
> ではありません。

それでは,これらの表現が「部屋,ひいては建物自体の平面構成を規定する」ことを
具体的な図面を使って教えていただけますか.議論はそこからだと思います.

謙遜ではなく,
私は自分の復元案が所詮「素人の遊び」であることを十分に自覚しています.

江戸城や名古屋城のように資料が十分に揃っているのであれば,
素人が専門家の復元を批判することは間違っているでしょう.

しかし,以前にも書きましたが,
安土城天主の復元はその基になる資料が少ないので,
復元する人間が想像で補わなければならない部分が多く,
専門家の復元でも「遊び」の要素が強いと思っています.
これは,復元する人によって復元案が大きく異なることが示しています.

それ故,城郭建築の専門家でない私でも内藤氏や故宮上氏の復元案を批判できるし,
彼らの復元案より優れた復元案を提示できるのではないかと考えています.
(例えば,内藤氏の復元案は採光のための窓が少なすぎる,
故宮上氏の復元案は本丸御殿との廊下を考慮していないという欠陥を指摘できます.)

森さんがこの分野の専門家であれば,
つまり,大学等で城郭建築を研究して生計を立てておられるのであれば,
あるいは,それらの人々から同等の能力があると評価されているのであれば,
森さんに対し大変失礼なことを言ってしまったと心からお詫び申し上げます.

しかし,そうでないならば「素人の遊び」と言うことは,
「他者に対して言うのは失礼も甚だしいこと」ではないと思います.



> 「日記」の該当頁はかなり容易に写真図版で確認することができます。
> 「いくら「素人の遊び」でも」「他人に読んでもらうつもりであれば,
> 必ずしなければならないことだと思います.」。確認もしないで
> 「信憑性が低い,あるいは,ほとんどないと思います」というのは
> いかがでしょうか。

私は淳也さんを信用して確認しなかっただけです.
淳也さんのHPが間違っているのでしょうか.


タイトル森さんへの御返事 その二への返事
記事No: 151 [関連記事]
投稿日: 2003/01/13(Mon) 22:06
投稿者

ご返事その2です。

> これが「情報を正確に伝えるのに成功している」と森さんは思いますか.

日記や文書などを読む機会がありますが、そうしたものに
比べれば当時のものとしては格段丁寧な記録、というのが偽
らざる感想ですが、「情報を正確に伝えるのに成功している」
かどうかなんてのはもはや誰にも分かりません。
比較してはどうかと思いますが、宣教師の報告では何せ建物の
体裁にはならず、それに最上階の記述っていってもあまりに
漠としていて貴方のおっしゃるような議論になるかどうか。

> 森さんは明言されていませんが,森さんは「『安土日記』が絶対的に正しい.
> したがって,他の情報よりも最優先すべきである.」
> という前提に立って議論されていると私は思います.

…どこから「絶対的」なんて言葉がでてくるのか…貴方は論理的な
議論をされたり書かれたりしたことがないようですね。「安土日記」
については史料的に「その文言が実在の天主と異なる可能性もある」
と貴方がいうまでもなく限界は当然存在します。そのうえでこの史料を
信用、利用していくことになります(<文献史学では暗黙の了解事項で
す)が、この安土城の場合、「日記」の情報を信用、或いは最優先して
その基礎に置かなければどうやって作業が行えるというのでしょうか。
はなから「間違いがある」という仮定は、得てして恣意的な史料改竄の
介入や予断をもたらす原因となるのは、この研究に限らず史学の世界の
一部でよく見受けられるところです。

> 『安土日記』の記述と他の情報が矛盾するのであれば,どちらが正しいのか,
> という考察も絶対に必要である,という常識的な思考です.

これはよくある二者択一の罠ですが、それまでの「安土日記」の理解、
あるいは他の資料の理解に不備があり、実はどちらも同一の事象を述べて
いる、というケースも念頭に置くべきです。ですからまずは「日記」の
一言一句を厳密に読むべき、と申しております。

> また,発掘調査の結果と宣教師の記録から,
> 天主と御殿は廊下でつながっていたことはまず間違いないと考えられています.
> しかし,この廊下があるかないかは,
> 一階の「平面構成を規定する」ほど重要であるにもかかわらず,
> この廊下について「安土日記」は全く触れていません.

「まず間違いない」って誰が考えてるんですか?。発掘調査の結果と
してはっきり発表がありましたっけ。あるのは用途不明の角石と、内
藤氏の研究を受け近年制作されたNHKの番組とその書籍、あと氏が
携わり天主案がまるまる採用されたCGのみのような気がしますけども。
それも貴方が設定しているような形での東へ延びる廊下について、天主
台の取り付きは発掘されて何か出てましたっけ?。
また、「宣教師」の記録っていうのも、

信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の
宮殿を造営したが、むそれは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に
造られていた。

だと思いますけど、「信長公記」や発掘調査、そして文脈を照らして
みれば、すでに誰かも指摘してましたが、「自分の邸」…天主とは別に、
「廊下で互いに続いた」「入念」「華美」な「別の宮殿」を造った、
すなわちこれは、調査で確認された、二棟の建築が互いが廊下で接続
された本丸御殿そのものを示し、別に天主と御殿が廊下で結ばれている、
なんてことは記されていないということになります。

> 他の情報を軽視し,「安土日記」の「記録の一言一句を重視」するのであれば,
> 「最上階の壁は金ではない」,
> 「青(緑)色で塗られた部分はない」,
> 「御殿につながる廊下はない」ということにならざるをえないでしょう.

…んじゃあえて自説から述べれば
   ○「最上階の階の少なくとも柱は確実に金。壁面については
     日記が記さず、また宣教師の言う「壁」の概念がそもそも
     問題にしている「壁」と厳密に同一か検討しようがない
     ため不明」
   ○「青」いのは描かれている水の生き物関連から「はた板」
   ○「御殿につながる廊下は今示されている根拠自体、そのものを
     示すか不明であり、まして仮にあったとして天主も外付けの
     施設について「日記」記載の可否を問う姿勢自体が恣意的。」
…終わり。別に私、「宣教師の記録を使うな」、とは言ってないでしょ
うに、勝手に人の説を作ったり、「ならざるをえない」なんて勝手に
決めつけないでね(笑)。どうも貴方は批判すべき、あるいは肯定すべき
ことがらについて、都合のよい前提を拵え、勝手に決めつけて「ありえ
ない」とか「考えられない」とか否定してみせるという手法で自説を
補強しようとする向きがありますね。

> また,厳しいことを言うようですが,
> そもそも「推測の屋上屋を重ねる」のは「不毛」であるとおっしゃるのであれば,
> 安土城天主を推定復元することは御止めになったほうがよろしいのではないでしょうか.

貴方の論述作法について「推論を重ね」「推論の屋上屋を重ねている」
ことを「不毛」な部分が多いとして指摘してるんであって、いかにも
一般論にまで敷衍して議論を逸らすのはいかがでしょうね。

最後に。
貴方は研究に「玄人」「素人」があるという寂しいお考えの方なんですね。一方で「彼らの復元案より優れた復元案を提示できる」という自負
も畏れ入ります。まあ、大学の研究者ないしその人々に「同等」と認め
られなければその人の研究は「素人の遊び」なんてゆがんだ権威主義的
な考えを本気でお持ちというのも驚かされますけども。

> 私は淳也さんを信用して確認しなかっただけです.
> 淳也さんのHPが間違っているのでしょうか.

淳也さんが間違っているとかいないとかの問題ではなく、
つまり自分で原本図版を見ることもなく考察してるのですね。
淳也さんに自分への批判をなすりつけるような行為はやめましょう。
たとえ貴方の言説が「素人の遊び」でもですよ。
で、見てるのですか?、見てないのですか?。


タイトル森さんへの御返事 その二への返事のおまけ
記事No: 152 [関連記事]
投稿日: 2003/01/13(Mon) 22:43
投稿者

> それでは,これらの表現が「部屋,ひいては建物自体の平面構成を規定する」ことを
> 具体的な図面を使って教えていただけますか.議論はそこからだと思います.

私の原文は「ひいては建物自体の平面構成を規定するかも知れない
こうした記述を」云々となってますよ。無意識にでしょうけど恣意的な
引用の一例というべきです。それに「議論はそこから」って言われますが、今は「率直な意見をいただきたい」という貴方の説について検討
しており、自説の復元案については、話が難しくなりますしあえて触
れずに単に「率直な」疑問点を検証しているのです。つまり貴説への
質疑応答の場なんですよ。

また、当説については誰にでも読める状況になっており、淳也さん
からわざわざ掲載誌まで示してもらっているのですから、その上で
「図面を出せ」「教えろ」というのは先の「日記」原文の確認の件
といい、資料入手の努力もなし、「素人の遊び」にしても、そうした
姿勢は傲慢、或いは論点を逸らすことでこの場のがれをしようとして
いるとしか感じられません。

発表の動機が、単に労作を良く評価されたい、褒めそやされたいと
いう自己顕示的なことだけに根ざすのでしたら、最初からいかにも
謙虚に率直な意見など乞わず、最初からその旨お断りください。

では。


タイトルRe: 安土城天主二階推定平面図
記事No: 128 [関連記事]
投稿日: 2003/01/06(Mon) 09:34
投稿者T.m

Re: 安土城天主二階推定平面図 画像サイズ: 538×500 (36kB) 申しわけありませんが、かってに森嶋さんの復元案を訂正させて
いただきました。
最大の要点は、西の「二段広縁」を重視していることです。

そもそも、「二段広縁」の扱いもまた『指図』の疑問点であり、
間取り的に、別に“二段”である必然が同図からは窺えないとこが
従来より気に懸っていました。

なぜ“二段”であったのか。それは『安土山ノ記』における
  「西湖の月の玉階に上るは、布君の夜遊に供すなり。」
や、同記の記述はもとより、天主一階の信長の居間の付け書院に
描かれていた「遠寺晩鐘」に象徴されるように、天主には
西湖及びそれに連なる風景というものが重視されていたことが
その理由にあげられると思います。

それは、やがて信長は大坂に移転するつもりであったという俗説に
再考を求めるものとなりますが、尾張の人々の間には、少なくとも、
信長の父・信秀の代から近江への強い憧れが在り、平氏を称する
信長にとっても、安土はまさに理想の地であったと断言して
よいでしょう。

問題の「二段広縁」は、〔10〕の「廿四畳敷之御物置の御なん」
を広間に用いることを前提にしたものであったろうと考えられる
ものであり、自分の復元案では西側の面をほぼ窓とし、さらには
小壁部分にも採光用の連子窓を想定しています。


タイトル二段広縁
記事No: 134 [関連記事]
投稿日: 2003/01/08(Wed) 23:40
投稿者淳也

二段広縁 画像サイズ: 414×456 (2kB) > そもそも、「二段広縁」の扱いもまた『指図』の疑問点であり、
> 間取り的に、別に“二段”である必然が同図からは窺えないとこが
> 従来より気に懸っていました。

『指図』の「二段広縁」が、なぜ二段になっているかは、
立面図を書けば、すぐにわかります。

外側に出るに従って、2階の屋根が、だんだん下がってくるので、
天井に頭がぶつかる危険性が出てくるからです。


タイトルRe: 二段広縁
記事No: 135 [関連記事]
投稿日: 2003/01/10(Fri) 10:16
投稿者T.m

> 『指図』の「二段広縁」が、なぜ二段になっているかは、
> 立面図を書けば、すぐにわかります。
>
> 外側に出るに従って、2階の屋根が、だんだん下がってくるので、
> 天井に頭がぶつかる危険性が出てくるからです。
それはどうでしょうか。
そうした問題は、むしろ一階部分にこそ、採光の面でも指摘され
るべきであり、階段の処理としては別の方法もあり、ただの納戸に
面したその部分に、段差があり、しかも間に柱のある二間幅の広縁
とすべき理由にはならないのではないでしょうか。