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タイトル安土城の大手門跡前から大規模広場が出土
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投稿日: 2005/08/23(Tue) 01:03
投稿者淳也

安土城の大手門跡前から大規模広場が出土

 織田信長が築いた安土城(滋賀県安土、能登川町)南側の大手門跡前で、大規模な広場が見つかったと、同県安土城郭調査研究所が18日発表した。戦国時代の城としては例がなく、自らの権威を高めるため、天皇の行幸をもくろんだ信長が、出迎えの儀式などを行おうとしたとみられる。

 大手門の南約44メートルに一直線に並ぶ石垣が4か所で出土したことから、広場は東西100メートル、南北44メートルと推定される。大手門を中心に東西3か所の「虎口(こぐち)」(出入り口)がすでに発見されており、広場の南側は沼地だったとみられる。

 安土城跡では、京都御所の内裏「清涼殿」に似た御殿跡や、五層七重(推定)の天主近くまで一直線に延びる大手道跡などが確認されており、防御を重視した戦国期の城郭としては異例の造り。今回の広場跡について同研究所は、「入城前に何らかの儀式を行った可能性がある。天皇や公家、従者の武士が威儀を正したり、信長の家臣が出迎えたりする施設だったのではないか」としている。
(読売新聞) - 8月18日23時53分更新

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安土城の大手門前に広場、行幸迎えるため?
2005年08月19日


見つかった石垣の一部。これより奥が大手門前広場だったとみられる=滋賀県安土町の安土城跡で

 織田信長(1534〜82)が築いた安土城(滋賀県安土町、城跡は国特別史跡)で、表玄関である大手門の外側に広場が設けられていたことを確認したと、同県安土城郭調査研究所が18日、発表した。同研究所は「信長が天皇を出迎えるために設けたのではないか」としている。

 大手門跡の南側を掘ったところ、門の両脇を固める石塁から約44メートル離れた地点で、石塁と平行に、長さ2〜3メートル、厚さ0.5〜1メートル、高さ0.5〜0.8メートルの石垣が見つかった。石垣の基礎に木材が使われるなど、低湿地で沈みにくい工法が用いられていることから、石垣のさらに南側は堀とみられる水域だったらしい。石塁との間に建物跡などは見つかっていない。

 安土城は1579(天正7)年の完成。3年後に信長が明智光秀に討たれた後、焼失した。これまでの発掘調査で、天皇を迎えるための「御幸(みゆき)の間」とみられる公家風御殿があったことなどがわかっている。大手門の内側では、重臣だった羽柴(豊臣)秀吉と前田利家のものとされる屋敷跡や大手道なども確認されている。

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安土城からは、いろいろと理解し難い遺構が発見されていますが。
この広場は、何なんでしょう?。

城門前の、高札場や使者の応対用の空間は、記録からして百々橋口で、
奥行き44m幅約100mもある城門前の広場とはいったい・・・?

と思っていた所、昨日のNHK世界遺産100を見ていて、解決策を思いついた。

>ベトナムのフエにある王宮、宮廷の正門にあたる午門は、
>鳳凰(ほうおう)が翼を広げ、舞い降りた姿をイメージして作られ、
>1945年、13代バオダイ帝は、
>この門の上から全土に向けてグエン王朝の終焉を宣言しました。

ベトナムの手本となった中国では、宮廷の前門である天安門とその前の広場が、
皇帝が詔書を宣布する場所として使われていて。
毛沢東も天安門で、中華人民共和国の建国を宣言しているとか。

日本で詔書を宣布する場所として使われている紫宸殿の南庭は、
紫宸殿南階下から承明門石段下まで15丈(45m)、
文武百官を集めた庭儀用の空間は、略式の里内裏では8〜9丈でOKらしいので、
奥行き44mなら、十分庭儀が可能になります。

以上のことから、この城門前の空間は、
中国のやり方をまねた、文武百官を集めて行う庭儀用の空間で、信長が
安土城の大手門の上から詔書?を宣布する場所として使う予定であったと思われます。